吉野 裕之


印章を売る店すぎてわれと子は思い思いの夕焼けに遭う

小守有里『こいびと』(2001年)

 

波立てて鯨ちかづく予感する退職の人増える季節は

船のある風景はいつもまぶしくて自転車で来る琴美さんに会う

タイフーン防潮林を駈け抜けてラッシュアワーのかかとを叩く

冬木立大気を噛んで立つ朝にまぶたこぼしてわれは目覚める

春がすみ太古の空へ棚引くと思うかばんを抱えて今日も

 

たとえばこうした作品を収める小守有里の最初の歌集『素足のジュピター』(1997年)は、自然体でありながら、新しい感受性が確かにかたちになった一冊。自然体とは、他者やものとの距離の取り方に無理がないこと。

自然体で組み立てられていく関係。身体感覚が紡ぎだすその構造のありようが、彼女のらしさなのだと思う。

 

オリーブをかみ潰すときてのひらの中で静かな海は生まれる

椅子ひとつふたつと増える夢にいてわたしのどこか水漏れている

つゆくさの茂みに細い雨が降る六月われだけが老いてゆく

柿の実の芯まで熟れる月の夜にわれにちかづく背びれ持つ人

霜月のうす陽の中を君が来る雫のような子どもを抱いて

風の来る予報聞きつつテーブルにならべる春の家族の器

子とわれとふたつの匂い引いていく夏の初めのダムまでの道

 

『こいびと』から引いた。『こいびと』は『素足のジュピター』に続く2冊目の歌集。生活の変化が、作品の深まりをゆっくりと促している。

水や風、夢といった、身近にはあるものの、その輪郭や実体をまるごと掴むことが難しいものを通して、自らを描く。彼女の作品の特徴として、たとえばこうした言い方ができるだろう。2首目。「椅子ひとつふたつと増える夢」。「わたしのどこか水漏れている」。ともにある種のリアリティがあるものの、ふたつが結びつくとその全体が掴みにくくなり、読者は不思議な感覚に包まれていく。それが、とても心地いい。

 

印章を売る店すぎてわれと子は思い思いの夕焼けに遭う

 

「印章を売る店すぎて」。近所の商店街だろうか、おそらくどこのまちでも見かける小さな印章店だろう。「われと子は思い思いの夕焼けに遭う」。その店を過ぎて、私と子は夕焼けに遭った。一見なんでもないような作品だが、「思い思いの」という表現に注目したい。ここには幼い子どもを自身と対等に見る、つまり自立した存在として見る視線がある。

彼女は、対象や素材との、対象や素材同士の距離のつくり方に独特の感覚をもっている。幼い子どもは、当然自立してはいない。大きくなった子どもを思っているのだろうか。何年か先の、何年も先の。そしてもうひとつ、「印章を売る店」。おそらくどこのまちでも見かける小さな印章店だろう、と書いた。そう、彼女は日常のなかに立っている。日常のなかに立ちながら、その時間や空間を解放しているのだ。つまり、「いま・ここ」ではない場所に尋ねながら、「いま・ここ」を豊かに感受しているのだと思う。彼女は、いわばそのための繊細な感覚器なのだ。