一ノ関 忠人


きつね妻子をおきて去る物語歳かはる夜に聞けば身にしむ

岡野弘彦『冬の家族』(1967年)

*妻に「つま」のルビ。

『冬の家族』は、岡野弘彦の第一歌集になる。1967年に刊行され、翌年の現代歌人協会賞を受賞する。岡野弘彦は、昨年文化功労者に選ばれた。長く短歌を作り続けているが、その出発期の歌集である。

敗戦がまだ尾を引いて、決して豊かとは言えない昭和30年代の家族がえがかれている。大晦日の夜、子どもたちはふだんとは違う空気に興奮するのだろう目が冴えて眠れない。母親が「信太妻」の物語を話して聞かせる。浄瑠璃や歌舞伎に芸能化した――信太(しのだ)の森の白狐が葛の葉姫に化身して安倍保名(あべのやすな)と契り一子をもうけたが、正体を知られて子を置いて別れてゆくという伝説である。

眼の冴えて眠らぬ子らに病む妻が安倍の保名の話してをり

子を置いて去る母親の物語を病気がちの妻が子どもに語る。それを父親がそばで聞いている。正月といっても貧しい家族にそれほどの華やぎを演出することはできない。歳晩の夜、子どもと別れる母親の悲劇がいっそう身に沁みて感じられる。

それはこの家族だけではなかった。日本中にこんな家庭があふれていた。私は岡野の子どもの世代にあたるが、私の父も貧苦と明日の生活の不安に、夜中家族に知られぬところで涙をこぼしたことがあると語っていた。火の気のない寒い部屋に台所のガスの青い炎だけが印象に残る大晦日の夜の記憶が、私にはある。

『冬の家族』に収められた子どもを歌った作品をいくつか引いておく。

草の上に子は清くして遊ぶゆゑ地蔵和讃をわれは思へり

戦艦大和みるみるにして沈みゆくテレビの前に子は佇立せり

子を置きていでたる妻の帰りくる時を待つなり梅雨ふかき家

隔世の感のある戦後の貧しい戦中派家族の日々がここに浮かび上がる。私が岡野弘彦の作品世界に魅かれた一つは、こうした「冬の家族」への共感があったからだと、今更ながら思い返している。こうした歌を意識において父を歌い、私は戦後を問うている。