白露の色は一つをいかにして秋の木の葉を千ぢに染むらむ

藤原敏行『古今和歌集』巻5秋歌下257(905年)

*木に「こ」、千に「ち」のルビ。

 

この歌も、山本周五郎の小説経由であらためて気づかされた。周五郎に、「古今集巻之五」(新潮文庫『四日のあやめ』所収)という題の付いた短編がある。1958年に発表された、「山本としては異色の範疇に属する」(木村久邇典解説)小説である。元文とか寛延とかいう江戸中期のある若き藩士の再生物語とでも言えばいいか。友人の手記の体裁をとった謎解きのような趣向で、なかなかに読ませる。周五郎、脂の乗り切った時期の佳作であろう。

父の失策により家禄を半減されていた主人公が、旧禄を復活し、中老職に任命されようとしている。その前触れを兼ねて江戸への参勤の供を命ぜられた。その送別の宴の夜、嫁いで三年になる妻が自裁した。遺書はなく、理由が全く分からない。夜具の枕の当る位置の下に一冊の本があっただけである。その本からは何も見いだせなかった。

友人の配慮により病死とされ、主人公は予定どおり江戸へ赴く。しかし、妻の突然の自殺を、そう簡単に納得できるものではない。主人公は、妻をよく知らなかった。当然、生活は荒れる。茶屋遊び、酒、女……そうした不行跡にもかかわらず、やがて主人公は旧禄に復される。先代の時の父の失策は、実は失策ではなく一揆を抑えるための処置であったことが現主君の再調査によって明らかになったための処遇であった。しかし、妻の自殺に納得のいかない主人公は無理を通して国許へ帰る。

そこで友人から真相を明かされる。夜具の下に隠されていた一冊の本が、真相を語るものだったのだ。手ずれした胡蝶装の本の題簽には「古今和歌集巻之五 秋歌下」とあるその本である。湿気に表装がはがれ裏表紙の見返しの下に男の名を友人が発見した。その名は、妻の生家の隣りに住む青年であった。そして妻が妊娠していたことを友は告げる。それは主人公の子ではありえないのだった。つまり、妻は結婚する前から、隣家の青年と思いを交わしていて、しかし上士からの婚儀を断れるはずもなく、一度は諦めたものの、やがて密かに逢うことになったのだろう。妊娠が分かり、それを秘密にするためにも夫が江戸へ行く前に自裁するよりなかった。

主人公はその青年への決闘状をしたためるものの、妻のその時の「本気だから苦しかった」のだろうという辛さに思い至り、全てを許し、青年に中老職へ就く自分の助役になることを要請する。「妻の遺志だ」と言って。

このような哀切なストーリーの小説だが、主人公が江戸に出て知り合う女と酒を飲みながら、「男と女が惚れあう、ということは同じなのに、一つとして同じような惚れかたがない、みんなそれぞれに違っているんだから妙なもの」とその女がいう場面がある。その時、主人公は「そうだ、そんな歌があった」と反応して女たちを驚かす。「秋の露は一と色であるのに、草や木の葉をちぢの色に染める」という意味の歌を主人公は想起するのだ。

そして、妻の自殺の真相が友から明かされる場面で、「あの歌はこの歌集の中にあった」ことを思い出す。「古今和歌集巻之五秋歌下」の内にある一首だということだ。

惚れあう気持ちは同じだが、恋愛の形はそれぞれに違うということの喩えとしてこの歌が思い出されるのだが、それが妻の自殺の真相を明かすことにつながり、また青年を赦す主人公の心に通じて行く。なるほど巧い歌の使い方だ。

ところが、小説の中には、この歌の本文が記されていない。とはいえ、それは『古今和歌集巻之五秋歌下』をひもとけば即座にあきらかになる。心憎いばかりのテクニックではあるまいか。一首が殊更印象に残ることになる。

 

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる  『古今集』巻第四169

 

この歌で有名な藤原敏行の、この秋露の歌も是非記憶にとどめておいてほしい。小説内のことではあるが、何も語らず自裁するよりなかった若妻の哀切な心情と共に。そして、その全てを赦した主人公の心情と共に。山本周五郎の小説は、複雑で言葉になりにくい男女の心のひだの微妙を描いて、思わずうなってしまうような感動があることがある。周五郎のもっともよき理解者である木村久邇典は「異色」というが、周五郎の真骨頂を示す小説ではあるまいか。

小説に感化されたか、今日の鑑賞はやけに感傷的なってしまったが、そんな物思いを誘う季節でもある。