パンダ館の横にわが家の冒険王父を睨んでわつと泣き出す

          本多稜『惑』(2013年)

 

休日の動物園は、幸福と喧騒に満ちている。そこでは、何とさまざまなドラマが繰り広げられることだろう。最も多いのが、迷子を巡るドラマである。動物園に半日いれば分かるが、それはもう引っ切りなしに、迷子になった子どもの特徴を知らせるアナウンスが流される。

「わが家の冒険王」は、恐らく男の子だろう。パンダ館のあたりで家族とはぐれてしまったのだろうか。迷子になって心細くもあるけれど、自分が悪いのではない、という矜持がある。「冒険王」は、誇り高いのだ。

だから、お父さんがやっと見つけてくれたときも、まずは「睨んで」みせるのだが、次の瞬間、「わつと泣き出す」。迷子になった場合に限らず、もはや赤ちゃんではない子どもが泣くとき、多少の我慢や計算が入る。泣く前の一瞬の「溜め」は、自意識の発達の表れなのだ。そのあたりがリアルに捉えられているのも、この歌の面白さ、巧さであろう。

子どもの歌は、生ものである。もちろん恋も別離も、その時にしか詠えないものが在るのだが、子どもは日々成長し、ちょっと油断していると歌にするタイミングを逸してしまう。

行楽によい季節、家族が共に過ごす時間の中で、たくさんの子どもの歌が作られますように。