山田曜子『道化師の午後』
(2016年、砂子屋書房)
「枕詞」の喩えは、本来の和歌用語としての定義を考えると、わりとアバウトかもしれません。でも、古めかしい語で喩えたことにより、むかしの人も秋になると「もう秋ね」などと言っていたのかな、と想像がひろがります。
「もう」は他の季節にもつけられますが、冬(初春)が一年のはじまりである国に暮らしていると、秋の「もう」は「もう今年も残り少ない」の意味に近づき、ひいては「もう人生も残り少ない」年齢のとば口に立つようで、やはり他の季節とは異なり、いわば断念や諦観をうながされる「もう」だと言えます。
とはいえ、それはすこし考えすぎかも。掲出歌の会話体はあくまでも軽く、人声というより、風がささやいているような印象です。
幸せと背中合わせの不幸せ風のマントが街を行き交う
風のマントってなんだろう。換喩と考え『風の又三郎』のような少年を思い描いてもよいのですが、秋という季節の擬人化くらいにとっておきます。
秋はどんな境遇の人でも幸せばかりではいられなくなる、と言っているようです。
待つことも待たせることも忘れたい立秋の午後うたた寝をする
あとがきに、重度の障害を負った夫を自宅介護しているとあります。すると待つこと、待たせることというのはそれぞれ、介護される人とする人の行動をあらわしていそうです。どちらもつらいけれど、どこか淡いうたいぶり。
秋の気配と呼応しやすい、すずしく、すこしかなしげな作者のたたずまいを感じます。