飼い主にしたがう犬が家々のこぼれ灯拾い夕暮れを行く

沖ななも『白湯』(2015年・北冬舎)

 

わたしの家の近くに大きなホームセンターが建ち、その隅にペットコーナーが出来た。そのペットコーナーの床面積がまたたくうちに広がり品揃えも充実していった。目を見張るような変化を見たのちに散歩にゆくと、途中で出会う犬たちの様子も変化していた。小型犬が増えた。犬が品行方正でおとなしくなった。

 

よく躾けられて飼い主に従順な犬はもちろん好ましいことだが、見方によっては野生を撓められているようで、寂しい光景でもあるだろう。頼るもののない野犬と比べれば、飼犬は清潔で安定した日々が保証されているのだが、はたしてそれでいいのか、と作者は人間的な観点を重ねる。下句の「こぼれ灯拾い夕暮れを行く」という描写に、作者のそのように問いが感じられる。

 

自転車によりかかられて槻木つきのきのすこしく機嫌を損ねるらしき

身の嵩をすべりこませて身の嵩の場を得る満員電車の隅に

笑顔にて近づきて来る男あり笑顔のままに通りすぎたり

 

「自転車によりかかられて」のフレーズが「革命歌作詞家に凭りかかられて」をちょっと思い出させるなど、作者は言葉のイメージ喚起力への関心がつよく、それを表現主義的視線といっていいように思う。平成の世の槻木は溶解したりせず、不快感を表すだけで、内容は対照的であるが。作者は、歌われる対象に感情移入をせず、描写し、批評する。加藤克巳の主宰した「個性」解散後、後継誌「熾」を率いている。