光森裕樹


いましねばこれが遺影に使われる瞳にひかりがひしめくプリクラ

坂本七海「原野」(「東北短歌」第3号:2016年)


(☜10月2日(月)「学生短歌会の歌 (20)」より続く)

 

学生短歌会の歌 (21)

 

単なる思いつきか、あるいは、何かに思い悩んで死を考えたのか、ふといま死ぬことを考える。とは言えど、「死」というものはつねに暮らしの外側にあるものであり、死ねばどうなるかははっきりとは分からない。ひらがな書きの「しねば」という表現には現実感がない。ただ思いあたるのは、遺影として使われるのはこの手元にあるプリクラの小さなシールだろうということだ――
 

遺影の額縁にぽつねんと貼られたプリクラのシール、あるいは小さなそれがむりやり拡大印刷されてボケてしまった状態で額縁に収まっている。その前では家族や友人たちが涙を流す。あまりにもシュールな光景である。
 

プリクラというものも、時代の流れの中で大きく変わってきているようだ。ありのままの姿を写すものであったのが、美白効果などの補正はもちろん、極端に目を大きくしたりするなどの効果も付けることができる。その背景は想像するしかないが、ひとつには写真であれば誰もが手元の携帯電話で撮影することことができること、そして、もうひとつには、例えばプリクラの写真をネット上で共有するには、実際の自分と適度にかけ離れた写真でなければどのようなトラブルに巻き込まれるか分からないことなどが関係しているのだろう。
 

掲出歌の「瞳にひかりがひしめく」というものも、極端に瞳が大きくなり無理矢理のようにその中に輝きが描き込まれたものを想像した。
 

写真がなければプリクラの写真でも葬儀に…という発想は、遺族が故人を思う強さのあらわれとも言えるが、儀式のかたちに過剰に捕らわれているようで、なんだか恐ろしい。
 

先程、「写真であれば誰もが手元の携帯電話で撮影することことができる」と書いたが、そのような現在にあって、<私>の写真は友人はもちろん家族でさえ持っていないことを掲出歌は示す。自撮りの時代というわけである。もしかすると、自身の携帯電話には自分の写真が入っているのかもしれないが、端末にはロックがかかっており、死後は誰もそれにアクセスできないということだ。
 

やがてプリクラの遺影の姿だけが、遺された人々の記憶に残る。とってもおおきな瞳で、それがきらきらと輝いていた生きたプリクラのような人だったな、と――
 
 

(☞次回、10月6日(金)「学生短歌会の歌 (22)」へと続く)