中垣のとなりの花の散る見てもつらきは春のあらしなりけり

樋口一葉『一葉歌集』(1912年・博文館)

 

樋口一葉は「たけくらべ」「にごりえ」などの小説で知られた女流作家である。執筆活動のはじめに、旧派和歌による言葉の鍛錬と教養があり、1896年(明治29)に他界するまで、青春期のほぼ10年間ひたむきに和歌を学んだ。ちょうど旧派和歌が近代短歌に移り変わる時代であり、短歌革新期の旧派和歌の様相がみえる。

 

周知のように旧派和歌の歌作は題詠による。この題詠は、今日の題詠とは違って、古来受け継がれてきた題に基づき、受け継がれてきた美意識を踏まえ、縁語や掛詞を駆使して詠むものである。したがって内容は予めほぼさだまっている。散る花には終末を惜しむというステロタイプ化された観念が添う。

 

掲出歌には「丁汝昌が自殺はかたきなれどもいと哀なり、さばかりの豪傑を失ひけんと思ふに、うとましきは戦なり」という詞書がある。丁汝昌は日清戦争時に李鴻章の下で働き敗北の責任をとって自決した軍人である。一葉は、「隣国の戦死者の話も辛いものだ。悪いのは戦争である」と花に喩えて惜しんでいるのである。1895年(明治28)の作である。敵将の武勇を讃える気風も一つの型であったかもしれないが、それだけでもなく、開明的な思考が見える。この頃までの日本国内における中国への尊崇の念はたいへんに高かった。

 

春風従海上来

行く船の煙なびかし吹く風にはるは沖よりくるかとぞ思ふ

井蛙

うもれ井のうもれて過す春の日のおもしろげにも鳴く蛙かな

語恋

その人の上としいへばよそながら世にかたるさへ嬉しかりけり

 

『みだれ髪』刊行は、一葉の没後5年の後であった。