沢田英史ふり返るわが草深野をちこちの木この暗くれ茂しげは残念に似て

沢田英史第三歌集『さんさしおん』(角川書店・2007)


 

さて、前回の中皇命の歌の「草深野」だけど、実は万葉集のなかでもこの一首のみ、その後の和歌集などにも用例は見られないようだ。一方、近現代短歌では、使用例が見られる。

今日の一首もそのひとつ。

 

・ふり返るわが草深野をちこちの木の暗れ茂は残念に似て

※「木の暗れ茂」は「このくれしげ」

ここでは、自身の来し方が「草深野」、「木の暗れ茂」というどちらも万葉に登場する語彙によって比喩的に詠われる。けれど、そのような比喩としては、この歌に二つ並べられた「草深野」と「木の暗れ茂」はどこか繊細で瀟洒な印象があり、沢田さんの言葉に対する愛情のようなものが感じられる。一方で「残念」という語が目立つ。これは、日常的に遣っているいわゆる「残念だ」の「残念」ではなく、「心残りなこと。未練のあること。」という意であろうと思うが、それにしても「ざんねん」の音は強い。そして、自身の中にあった草や木の茂りが、振り返ったときには、「残念」に「似て」感じられる、というわびしさは、読んだあと、なんとなく尾を引いた。

 

沢田英史の歌というのは、古語的文法を丁寧に遣いこなしながら、その繊細さゆえか、歌の質はとてもライトである。そしてそのライトさがはかなくさびしい。

 

・連綿とエンドロールの流れゆくほの暗き席を立ちあがれない

・ソ連ていふあの大国ももうないと思ふと夢のやうだねおれたち

 

いつ切れるともわからないエンドロールの流れる映画館の席。それは人生の喩でもあるだろう。だから、「立ちあがれない」にはどこか、沢田さんの生に対する消極的なはかなさのようなものがある。ソ連がなくなったことを思うとき、自分たちもまた夢のようだと感じる。絶対なんてものはこの世にない、という感覚が寧ろ古語への信頼にもなっている気がする。

 

・目覚むれば金木犀の香る国一年ぶりで帰つてきたぞ

 

同じ国にいながら、日本の四季は、まったく違う景色や空気を連れてくる。それを、「国」に帰ってきたぞ、と言っているところがいいなあ、と思う。同歌集中には、「この国を出でたることはなけれども井蛙のあふぐ空もにごれる」という歌もあって、海外には行ったことがないことがわかる。それでもいながらにして、四季が、まるで違う国を自分のところに連れてくる。それをいながらにして「帰つてきたぞ」と思うのだ。

 

たとえ消極的であっても、自身の眼差しによって、いかようにも変化する世界がある。自分の来し方を「草深野」、「木の暗れ茂」と比喩するところにも、そうした心の機微があるのだと思う。

 

沢田英史さんとその作品については、荻原伸さんが書かれている「生きることが刑罰だった~沢田英史の短歌~」もぜひお読みください。