生沼義朗


佐々木実之/使ひきらざるティッシュを受け取り来し我にかなしみのごとくティッシュは溜まる

佐々木実之『日想』(短歌研究社・2013年)


 

佐々木実之(ささき・さねゆき)は1985(昭和60)年に17歳で「かりん」に入会し、馬場あき子に師事した。大学在学中は京大短歌会にも所属していた。7年前の2012(平成24)年3月17日、誤嚥にともなう脳症により43歳の若さで急逝した。『日想』は第一歌集であり、遺歌集である。3章立てで、Ⅰ章が佐々木が特に思い入れのある作品を、Ⅱ章とⅢ章には1985(昭和60)年から2011(平成23)年までに活字になったすべての歌が逆年順に収められている。

 

 

仏堂を出づればいつも癖なのか君は両手で帽子をかぶる
くつずみにくつ磨きをりぬばたまのひとりの夜を輝かすべく
介護施設が楽しいといふ父にどう楽しいかなほ問ひ返す
前菜にくらげはありぬ殺さるるとき苦しみはたぶん 少しは
働といふ国字を持てる我が国の誇りを我は継ぎてゐたるや
文庫本薄きままなれ大正の侏儒は言葉を言ひさして死ぬ
古きよきアメリカといふ要するにほどほど貧しき時代を指して
しつとりと紙薄き『模範六法』の繰りやすきまで雨降りつづく
日本史に出題ミスを見付けたりこの快感は人に語るな

 

基本的に身の回りの、自身の眼や手が届く範囲を丁寧に詠む。25年以上に渉る作品が収められていることもあるが、題材のバリエーションが幅広いため、世界が狭い印象がない。そして景色や思考を短歌に切り取る技術力が高いので、一冊を通して安定している。どことなく対象に対する適度なスタンスを取るところや、ニヒルな味わいも特徴的である。

 

掲出歌は、誰にでもある景色と情感を的確に切り取っている。街を歩いていて、何かのPRのために配られるポケットティッシュを受け取る。だがもらった一個でさえもなかなか使い切れない。でも別のときにまた配っていたら、何かの役に立つかもしれないと思わず受け取ってしまう。そうした経験が何回もあるから「受け取り来し我に」と率直に描写するし、だからこそ「使ひきらざる」から一首を詠い起こす。

 

そうして溜まったポケットティッシュが、袋か箱などにある程度まとまった数溜まっている様子を「かなしみのごとく」と佐々木は表現した。ここで注意すべきは、「かなしみのごとく」なので、「かなしみ」とは厳密にはイコールではないことだ。つまり、ティッシュが溜まってゆくことがかなしいのではない。あくまでティッシュが、あたかも体内にかなしさが蓄積されるかのように溜まってゆくのだ。そして、ここに優柔不断とまでは言わなくとも、つい曖昧な態度を取りかねない自分自身に対する内省を読み取ることはそれほど不合理ではない。ポケットティッシュの白さやふにゃふにゃした感触とも響いている。

 

佐々木には一度だけ会う機会があった。2010年9月5日に都内で開催された、鹿取未放歌集『いろこの宮日記』の歌集批評会に出席した際、着流し姿でやって来たのが佐々木だった。独特のたたずまいが強く印象に残り、『日想』の巻末に付された佐々木の着物姿の写真を見て、あらためてその印象がまざまざと甦ってきた。

 

 

君はもう死んだんだつけ飄々と清見糺でなき人を 雑踏

 

 

鹿取の夫である清見糺を追悼した一首。雑踏の中で故人に似た人を偶然見つけ、あらためてその死に思いを馳せる。「君」という呼びかけや上句の話し言葉にはニヒルさがあるが、冷たい感じはしない。一種の諦観を含んだ、そのやや乾いたつぶやきにかえって追慕の念が濃く漂ってくる。