花山周子


横山未来子/ふつつりと置き去りにされ乱れたる飛行機雲を風のきよめぬ

横山未来子第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(1998年・短歌研究社)


 

横山未来子の第一歌集、『樹下のひとりの眠りのために』には、際だった特徴がある。

 

あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る半袖のきみ
冬眠より目ざめて四肢を伸ぶるごと初めて顔をちかく仰ぎぬ
澄みとほる湖(うみ)に毬藻のそだちゆくゆるやかさにてひとを忘るる
とりどりの紅葉捉へて凍りたる湖(うみ)のごとくに生き来しひとか

 

たとえば、一首目の「半袖のきみ」に対して「あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る」というふうに、比喩の重量が重いというか、比重が大きいものが多い。長さでいえば序詞的だけれど、とても詳細にイメージが限定されているために、なだらかに対象に繋がらず、言葉を駆使すればするほど、比喩のイメージが屹立してしまっているような印象がある。

 

けれども、やはりそれは対象に向かっての言葉の触手なのであって、どうにかして言葉で、あるいはイメージで対象に届こうとするもどかしさが、なによりこれらの歌に清新な気迫を生んでいるように思う。一見静かできれいな歌なのだけれど、作者の初期衝動としての表現することの一途なアプローチが潜んでいると思うのだ。

 

そして、もう一つ特徴的なのは、

 

ゆたかなる弾力もちて一塊の青葉は風を圧しかへしたり
薄様(うすやう)の端を互ひにもつやうにひびきたるもの昨日はありき
水煙しろき夜明けの湖(うみ)にきて向う岸なるひとと呼びあふ
冬の水押す櫂おもし目を上げて離るべき岸われにあるなり
鬼百合のつぼみの爆ぜむ力もていつかひとりへ向けたき言葉
風中へ紙ひかうきを押し出すやうに断ちたるもののありしよ
張りつめてゐたる水面に葉の降(お)りて葉のかたちなる波紋ひらけり

 

こうした歌に見られるように、物理的な力の在り処や力と力の関係性が捉えられている点だ。言葉としてのレトリカルな志向を見せながら、一方でとても即物的な視点が働いている。何かによって、何かが引き寄せられたり、放されたり、緊張したりする。そういう、モノとモノ、人と人、感情と感情との関係性が言葉によって見いだされる。それは、一方的に成されるものではなく、だから主体が能動的にではなくて、受動的であることが、そうした力の在り処を顕在化させるのだと思う。

 

そして、このようなアプローチ、モチーフへの触手が、次第に横山未来子の歌の俯瞰するような眼差しと、その眼差しがモノに触れていくような感触を生んでいったように私は思っている。

 

昏れかかる大樹にはかに身をゆすり砂塵のごとき鳥放ちたり

 

黄昏の時間の大きな木のシルエットからたくさんの鳥が飛び立つ。それが、「砂塵のごとき鳥」だという。鮮烈な比喩である。そして、「砂塵」という細かさは、私の眼差しというより寧ろ、大きな木からの目線ではないだろうか。ここでは、木と鳥の、その物理的な関係性が一つの詩情として立っているように思うのだ。言葉によってモチーフに触手を伸ばすことが、そこに実体を生むというか、私が直接触れていないものの、力の関係が見出される。そして、

 

ふつりと置き去りにされ乱れたる飛行機雲を風のきよめぬ

 

この歌に、私は3月4日に紹介した、式子内親王の、

 

浮雲を風にまかする大空の行ゑもしらぬはてぞ悲しき

 

という歌を思い出す。空は最初から人間の手の届かない場所であり、そこに置き去りにされた飛行機雲に触れることができるのは、空に流れる風のみである。「飛行機雲を風がきよめぬ」の清がしさはそもそものモチーフの清しさ以上に、手を触れることのできない視界の中に、飛行機雲と風の物理的な関係性が「きよめぬ」というふうに見つめられていることの静けさにあるのだと思う。