花山 周子


佐藤佐太郎/薄明のわが意識にてきこえくる青杉(あをすぎ)を焚(た)く音とおもひき

佐藤佐太郎『歩道』(1940年)


 

9月4日に紹介した平岡直子の、

 

きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話

 

を読みながらなんとなく思い出されていたのが今日の一首だ。二つの歌は「薄明の」の置かれかたが似ている。平岡の歌では、「薄明の」は時間帯でもあり、「20世紀」に直接かかるのであれば、20世紀初頭としても取れる。

 

佐太郎の歌では、

 

「薄明の」は、夜明け前という時刻を表しているとも、眠りが覚めやらない茫漠とした意識の状態を表しているとも解釈できる(佐太郎自身は前者の解釈で言葉を使っている)。

大辻隆弘『佐藤佐太郎』(コレクション日本歌人選071/笠間書院)

 

と大辻隆弘が書いているように、どちらとも解釈できる。括弧内の佐太郎自身は云々というのは、

 

夢と現実との間の意識で何か楽しい音を聞いていた。薄明は朝の薄明のつもりであった。ただそれだけを言った。説明を排して強く言うのが詩である。

佐藤佐太郎 『短歌を作るこころ』・1985年(「角川選書」)

 

おそらく、ここから来ているのだと思うのだが、大辻が敢えて括弧に入れたように歌そのものの印象を眺めるならば、必ずしも「朝の薄明」と限定する必要はないと思う。私が佐太郎のこの自註で注目するとすれば寧ろ、「説明を排して強く言うのが詩である」というところだ。「説明を排する」ことがここでは「強さ」として語られる。そしてそれが「詩」なのだと言う。写生をひたすら追求した佐太郎ではあるが、一方で「詩」というものに対する感度が作歌の現場で働いているというのは大事な点であるし、漢詩を好んだ佐太郎らしいとも思う。ただ、それだけではなくて、「説明を排して強く言うのが詩である」というのは、短歌詩形という限定された空間が自ずと浮上させる原理でもあるのではないか。そして、そのような原理が、それまでの近代的な私性とは少し違った次元から生かされているのがこの歌のように思う。

 

「薄明の」からはじまるこの歌は、「薄明」が確かに強く印象付けられる。でもそれだけではなくて、ここでは短い詩形の初句において「の」という助詞が置かれることで、日本語の曖昧さ自体が詩的言語としての位置を獲得する。平岡の歌も二句切れの次におかれる「薄明の」というはじまり方は不安定でありながら、寧ろその曖昧さが歌全体の言葉のイメージを詩的に接続するようなところがある。物事の叙述的な面に拠らない、別の回路が開示されるのだ。ただ、ここで念のため断っておきたいのは、ここでの「の」の曖昧さは、勿体つけるような含みを持たせる種類のものとは自ずから違うということだ。なんでも「の」にして曖昧にすればいいということではない。この二首は寧ろそのような含みを回避するところで成り立っている。

 

それはたとえば「薄明のわが意識にて」の「にて」であり、「テレビみたいね」の「みたいね」である。ここには極めて自覚的な「意識」が挿入されていて、それが歌の言語空間が置かれている場所の断りとしても機能しているのだ。ここにある言葉はあくまでも私の意識のなかにあり、「薄明の」は抽象的でありながら意識という限定された場所に置かれていることが明示されているのである。

 

佐太郎の歌ではさらに「青杉」の「青」も「薄明の」と似たような印象を与えている。この「青」は「青松」とか「青竹」といったように杉の木をこう呼んでいるとも思えるし、焚かれている葉が青い葉であるとも取れる。この歌は12月頃のものである。杉は常緑樹であるし、「杉落葉」は夏の季語でもあるように、葉が茶色くなって落ちるのは主に夏であるから、実際的にもどちらとも取れるのであるが、見ていない杉を詠うときのこの「青」の印象は不思議に強い。「薄明の」という言葉も朝方の青白い光を思わせるから、これらの言葉によって歌全体が清明な静けさを感じさせる。

 

そして、この歌でもっとも不思議な空間性をつくりだしているのが、
「薄明のわが意識にてきこえくる」という現在的な物言いと「青杉を焚く音と思ひき」という過去を回想する物言いが接続されている点である。そのためにどこか奇妙な印象を与えるのだけれども、これは、単純に「薄明のわが意識にてきこえきし青杉を焚く音と思ひき」と時制を揃えれば解消されるかと言えばそうでもない。「薄明のわが意識にてきこえ」てきたことと、「青杉を焚く音と思」ったこととは何かしら位相がずれてしまっているのだ。これも短歌定型が起こしている圧縮のためである。

 

薄明のわが意識にて聞こえくる(音を)青杉を焚く音と思った

 

と(音を)を挿入すれば叙述としては成立するのである。けれども「音を」が省略され接続されることで、ここでは寧ろ意識というものの空間が開示されることになる。実際的な事の順序ではなくて、「薄明の」や「青杉」といった言葉の印象のほうが鮮明になり、そういう印象を辿る意識の回路が開示されるのだ。

 

この歌では近代文語が作り出した「われ」と「外界」という構図が解消されている。「われ」という起点から物事との距離を測るのが文語の時制であるのだが、ここではそのような「距離」は存在しない。あくまでも一つの意識の連なりのなかに置かれることになる。

 

平岡の歌と佐太郎の歌はまったく違うものではあるのだが、言葉の置かれる場を「限定」することで開示される清明な詩のありようはどこか似ているとも思うのである。