若山牧水『別離)(1910年)
朝から夕方にかけて、お日さまが徐々に移ってゆく。
下から見れば「弓形」に思える青空を、歩くかのように渡ってゆく。
青空のなかの青い道というのは、想像してみると、どこを歩いていいかわからない気がする。
太陽がそんな茫漠とした感じで歩んでゆくと思うと、これは随分心もとないことだろう、という気分になる。
ここで太陽は、恵みを与えてくれる豊かなものでも、また、太陽神というものでもない。はるかなものとして見上げられるのではなく、人間、もっというと自分が太陽となって、その大いなる「さびしさ」が感受されようとしている。
自分が太陽となった感じで、太陽をうたうなんて、全くもってユニーク。
こういう自我が明治の時代にはあった。
細かいことにこだわらず、太い線をひくようなうたいぶりも、現代ではあまりみられなくなったものだろう。