わが体の秘密をいはば左膝蓋ひだりしつがい下部一寸余脛毛つむじ巻く Part2

小池光『日々の思い出』

 

なんと!

この「日々のクオリア」の記事について、小池光さんからお手紙を頂きました。
たいへんうれしかったので、了解を得て内容を引用・紹介したいと思います。

(元の記事のリンクhttps://sunagoya.com/tanka/?p=25482

 

さて、きょうわざわざお手紙差し上げようと思ったのは、9月7日に載った以下の歌の読みについてです。作者として若干の異議がある。異議というとおおげさですが。

わが体の秘密をいはば左膝蓋下部一寸余脛毛つむじ巻く

という歌ですが、永井さんは「下部一寸余」を「かぶいっすんあまり」と読んでいますが、ここが作者の意図とは違う。「余」は「あまり」でなく「よ」と読んでもらうつもりでした。

三句「左膝蓋」(ひだりしつがい)と定形を崩し、
四句「下部一寸余」(かぶいっすんよ)できっちり7音で立ち直り、
結句「脛毛」(すねげつむじまく)で再び字余りして定形を崩す。

というのがこの歌のモチーフです。
四句を「いっすんあまり」と読んでしまうと、三句以降は全部字余りになって、短歌の韻律が立たなくなると思いますがいかがですか。

 

なるほど。
「一寸余」は「いっすんよ」なんですね。
わたしは、わりと何の疑問もなく「いっすんあまり」と読んでいました。いま、Google検索をしてみるとそもそも「寸余(すんよ)」(一寸よりも少し長い)という言葉があって、これを知らなかった。

小池さんの意図だと、この歌のリズムは三句で崩れたあとに四句で立ち直っている。
そしてよく見ると初句でも余っているから、全体は
6・7・7・7・8となる。つまり、余る句ときっちりの句が交互にくる。崩れては立ち直るという構成になっているのかなと思いました。

わたしのはじめの記事のリズムの受け取り方だと、三句四句で思い切り崩れたのを結句を短歌のリズムらしくして形をつける、という感じかと思っていました。
ちょうど小池さんに「リズム考」という論考があるのですが(『街角の事物たち』収録)、
そこで言われている「部分定型」に近い感じ。

 

スペイン、カタルニアの御堂のおく顔面真黒き聖母立ちたり 葛原妙子

 

これはほかの句が崩れているけれど意味・イメージ上でも核心となる結句がきっちりなので、短歌のリズムになっている。
ただ、このパターンの韻律だとすると、最後に形を立たせる結句はやはり7音であるべきで、「脛毛つむじ巻く」は8音でまた余ってるな、とは書きながら気づいていました。

ちなみに「リズム考」には、
「ごく一般的な七音を持った三句は、ぼくは未だ成功例を知らない。」
「三句増音・・・・・・高度のテクニック。五七六七七のみ可能と思ってまずまちがいはない。それ以上はウルトラC。」
とあり、「左膝蓋」(ひだりしつがい)7音の三句を持つこの歌は韻律的に攻めた歌であることは間違いない。

が、ここでさらに話をややこしくする注を入れるとすると、「リズム考」と『日々の思い出』の間には7年ほどの時間差があり、小池さんの韻律感覚はこの間にけっこう変化していると思われる。
おおざっぱに言うと、「リズム考」はかなりきっちり、『日々の思い出』はそれを崩していく志向が随所に見られるような気がします。「左膝蓋」の三句2音余りもその一つと言えるかもしれない。

今日はちょっと専門的な感じの話になりましたが、こういうのを技術的な問題として文学性みたいなものと切り離してしまうと、短歌ってほとんど意味なくなってしまう。

お手紙はたいへん貴重でありがたく思いました。わたしはちょっと「一寸余」(いっすんよ)の崩れて立ち直ってまた崩れる韻律に体を慣らそうと思います。

 

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