この川を往き交ひし戦後の日々埋めて葦むらの中に朽ちてゐる舟

志垣澄幸「朽ちてゐる舟」角川『短歌』2022.03

 

ついさいきん発売された雑誌から。

一読してすんなり意味のとれる、素直な一首。

作中主体の目にした「舟」にフォーカスを当てながら、語り手は情景以外の情報を読み手に指し示す。そうすることで、まるで走馬灯のように、ことばが「舟」に流れ着いてゆく。

 

不思議と記憶に残ったのは、「埋めて」という表現。

水やひとびとに操られることで進めるはずの「舟」が、なぜか積極性をともなってその行動に加担しているように見える。

「朽ちる」は木などが腐って、形がくずれる、役に立たなくなること。或いは才能などがすたれる、むなしく終わることを意味しますが、

ここではそのネガティヴなイメージとは別の、古びすたれてしまうまで使い古したことに対する、語り手のあたたかい視点を感じます。まるで「舟」の満ち足りた疲労に寄り添うような。

 

もうひとつ心に残ったのは、きっと「戦後」。まさか生きている間に、身近に戦争が始まってしまうとは思ってもいなかった。〈日本〉にとってのその経験を、今回の事象になぞらえて発話してしまうことの暴力性を、その思考の貧しさを恥ずかしく思いながら。

 

作品の前では常に、ある一定の態度を保って接していたい、という欲求がずっとあって、だからこそ、読み手(作品を受け取る側)のバイオリズムが鑑賞に影響を及ぼしたり、否応なしに反映されてしまう、という状況がずっと苦手だった。わたしが歌会のにがてなのは、きっとこれも一因。

でも、その態度はけっこう危険で、ともすると視野を狭め、おのれの快い世界に閉じこもっていたいだけなのかも、ということが、「日々のクオリア」を始めて得た気づきのひとつでした。

 

わたしたちにとって、「戦争」の歌の読み方が変わる。変わってしまう。その境目を、目をそらさずに感じていたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です