辰巳泰子『紅い花』
(砂子屋書房、1989)
第一歌集の冒頭から三首目の歌。つまり、性愛が主要なテーマである第Ⅰ章に含まれるが、暴力的な父や教育現場で出会う子供たちを中心に展開する第Ⅱ章の方にも
黒揚羽とびだしさうになる咽喉伸ばして昼の職場見渡す
という一首があった。この歌集の主人公は、のどの奥、ずうっと奥の胃のあたりに、どうやら蝶を飼っている。いや、蝶のようなもの、というべきと思う。
観念的な表現であろうとはいえ、およそ人間の胃袋ほど、蝶のような軽く乾いた生き物の棲むのに劣後した環境はあるまいと思う。体内にいるときはたとえば寄生虫のような姿かたちで、それがふとしたきっかけで咽喉を通り、外に出れば、夏蝶や黒揚羽のような、いわばよそゆきの蝶の姿に化身するということだろうか。
『紅い花』の、特に第Ⅰ章には昆虫や小さな生き物にまつわる表現が多く目につく。すこし多めに引くことにする。
加速して都心を離れゆくわれら昆虫のごとく車体息づく
生殖を終へたるのちもこほろぎの声は象牙の耳をさまよふ
深海の魚のさむさをおもひつつ梅雨の合ひ間の日ざかりをゆく
ひと夜さをうごめきやまぬ恋といふ潰しそこねの羽虫一匹
誘蛾燈青き螺旋のひかり散り下等動物おおく自死なす
たとえば三首目にいう「深海の魚」は、ひょっとするとその夏蝶や黒揚羽の、主人公の体内における姿ではないのかと思いたくなる。このときの主体は、テレビや図鑑で見た深海魚のことをふと脳裏にうかべただけなのかもしれない。しかし、それが一首の歌になるとき、「恋のはじまり」に通ずる予感がたちあがってはこないか。「梅雨の合間の日ざかり」とは、つまり、恋愛と恋愛の、あるいは性愛と性愛の、あいまの時間をいっているのではないか? 同時に四・五首目の羽虫や誘蛾灯にあつまる虫たちは、蝶になりきれなかった恋(や性愛)の残骸と読むこともできる。
二首目では、こおろぎとともに恋愛でも性愛でもない「生殖」という虫にふさわしく思える即物的な語を用いるのだが、その生殖の主体は、この歌集の主人公なのか、もしくそこにいるこおろぎなのか、あるいは「声」は、現実に聞こえているのか、頭の中にこびりついてしまった音であるのか、この歌を見れば見るほどわからない。まるで半ば虫になった主人公の姿がここにあるようだ。片や一首目では、「われら」つまり主人公と恋人を乗せたらしい車体は、昆虫(きっと甲虫のたぐい)に喩えられながら都心を出ていく。都心とは、人間の理性のことをいっているようにも思える。「息づく」車体に乗って向かう先にはきっと衝動の世界があるだろう。
『紅い花』第Ⅰ章においては、性愛の衝動につきうごかされるような世界の存在を主人公に知らしめる使者のような役割を昆虫や小動物たちが果たしている。掲出歌において「恋のはじまり」というやわらかな表現とともに示される蝶は、このときまだ“都心”にいる主人公が、顔を合わせることのできるぎりぎりの姿であったかもしれない。
殴りつかれぐつすり眠りこむひとを火照つた肉のごとく見下ろす
「吹かんかい」てふ子のハイヒール吹いてやるこんなことさへふれあひのうち
第Ⅰ章において、みずからの体の内に存在した衝動をまざまざと見せつけられることになった主人公は、第Ⅱ章に進み、父を中心に展開する自身の家庭や、少年少女たちのすさみを目の当たりにする。そのあいまにあの黒揚羽の歌はある。どうにか自分を保とうとする環境下で、父や少年少女たちに対抗しうる強い自我が、実はもう主人公自身の体の内にあることを思い出させよう。黒揚羽はそんな役割を使者として担っている。