モンスターペアレンツなる明るみに影すら消され友立ちつくす

染野太朗『あの日の海』
(本阿弥書店、2011)

この歌の特質は、なんといっても「モンスターペアレンツ」を、迷惑やハラスメントの主体としてではなく、なにか太陽のような膨大なエネルギーのかたまりであり、かつ光源であるものとして描き出した点にあろう。歌集を読むかぎり、主人公は中学か高校の教員のようで、つまり「友」は学校の同僚ということになろうかと思う。生徒の親が職員室に乗り込んできたような一場面。強い光源に当たれば、ふつうは影が濃くなるはずであるが、ここでは、影は消されたと表現される。モンスターペアレンツの発する猛烈な光のエネルギーが職員室の壁に四方八方で反射して、あらゆる角度から「友」を照射する、そういうことだろうか。

そんなすさまじい怒りを目の前にして、その「友」も、あるいは傍観者としてこの状況を歌に書き留める書き手(=主人公)も、ひどく落ち着いた様子である。

どの生徒も同い年なる教室に汗臭くなるぼくの怒鳴り声
人間は、否、教師らは諦念をときに誇りて雨に口
校庭の体育教師の怒鳴り声に笑えり 他に行き場所がない

同じ一連「雲をあやつる」から、掲出歌の前後の歌を引いた。「諦念を誇りて」といわれると、先ほどから見てきた、傍観者であるはずの主人公がなぜだか覇気をうしない、また同僚を「友」と呼び連帯を示す心理の正体が見えてくるように思う。別の連作では、たとえば「醤油皿に醤油乾ける冬の夜を国語科主任に叱られており」「豆乳に浮く湯葉のごと掬われてぼくは教師のいいなりである」といった歌があるとおり、職場の教員たちが主人公にとっての脅威になる場合もある。しかし、ここでは教員らみなを一団の群像として描く。諦念という負の側面を「ときに誇りて」とまで言うのは、それをもつゆえに連帯することができるからだろう。

一方、一首目では、同い年の生徒たちが一団の塊となり、教室ではたったひとりの教員でいるしかない主人公は、まるで威嚇をするように一団の生徒たちを怒鳴る。三首目では、別の教師が同じように怒鳴り声をあげているのを見て、「笑えり」——これはあざけりつつも共感示すような、そんな笑いだろう。体育教師をあざけりながら、自分自身を嗤ってもいる。

吉野家の豚丼にそっと添えられて兵士の眼冷えきっており
豚丼の飯に埋もれた銃弾を箸につまみて店員を呼ぶ
銃弾を箸につまめば店員が銃を差し出す「それ〈当たり〉です」

諦念は、この歌集を読み解くのに重要なキーワードとなりうると思う。ここに引いたのは「噴水」という、まるで夢の中の出来事を描いたような一連から。教師として群像中の一人として働き、生徒という群像と対峙し続ける主人公が、ここではたったひとりで、吉野家を訪れる。そこには、やはりふだんは集団で行動するであろう兵士がひとりいる。この兵士を傍観する雰囲気は今日の掲出歌に似ていると、私には思える。やがて主人公のもとに自分の豚丼が運ばれる。三首目の「それ〈当たり〉です」は徴兵といったことを意味しているのだろう。一首目の兵士は、つまり、つい先ほど同じように〈当たり〉を見つけて、兵士にされてしまったのだ。感情もなくとんとんと話が進んでいく連作の作られ方は、繰り返し読むうち、この主人公はすべての展開を、つまり兵士にされることをわかっていて、店員に銃弾を見せたのではないかと思えてくる。人は諦念を持つと、ときにそうやって、みずから「ほかの行き場所」を返上する。一首目の兵士へのまなざしは、やがて連帯の気分を帯びてくることだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です