盛田志保子『木曜日』
(BookPark、2003)
クリップにもいろいろあるけれど、この歌のばあい私にはゼムクリップがイメージされる。100グラムとかのちいさなパックで売っているあれを机の上にあけて、ひとつをそっと摘まみ上げる。そのひとつを「クリップの死」だと言っている。クリップという生き物の、私たちがつかっているのは、要するに死骸だったのだ。なんだかしらす干しとかちりめんじゃこのような……。
とはいえ、「クリップの死」というとき、それは「クリップの死骸」であると同時に、やはりクリップという生き物の概念としての〈死〉を歌ってもいる。つまり、ここから浮かび上がってくるのは、人間のごくありふれた事務作業の一場面であるに、どこか私たちの知らない場所で大量のいきものの生や死を管理しているであろう〈神〉の事務所の執務風景と相似形を成す瞬間があった。そういうイメージが背面でうたわれているのではないだろうか。
神さまは鳩を放ってやるように一人一人に時間をくれた
桃色の付箋が生えてある朝の列車時刻表飛び立ちぬ
そう考えると、同じ歌集の別の連にあるこんな歌が目についてくる。まずは一首目。なにしろこんどは「神さま」が主語だし、クリップに対する鳩、「引き上げる」という捕縛に対する「放ってやる」という解放。まるで掲出歌と対をなすような一首だ。ゼムクリップの形をした〈死〉は神さまのてのひらで、ふくふくの鳩の姿にあたためられ、神の事務所の屋上から生の世界へと放たれるのだった。
一方で、ゼムクリップを鳩に変貌させる神さまのマジックそのまんま、とまではいかないが、その過程を再現しようとしているらしいのが二首目。旅行者によって列車時刻表(あの分厚い冊子?)におびただしく貼られた付箋が、やがて羽毛となり、翼となって、一冊の列車時刻表はついに一羽の鳥へと変身する。時刻表を読みこんで付箋を貼るという行為が、「飛び立」つことのできる一羽の鳥を産むというのであれば、その鳥は時刻表として旅行のあいだ携帯されながら、さながら「青い鳥」のように旅行者をあらたな土地へと先導する。それはあの歌で神さまが鳩に「時間」を、つまり生命を与えていたその行為を地上の人間が再現し、さらにはその恵みを人間自身も享受しようとしているように見える。が、「飛び立ちぬ」と完了形でいわれるとき、その鳥は旅行者の出発するはずだった朝に、その家の窓から逃げ出してしまったようにも見える。取り残された旅行者はどうなるだろう。
いつか死ぬ点で気が合う二人なりバームクーヘン持って山へ行く
つまりはこういうことらしい。この歌の「二人」は、なにも神さまの仕事に手を突っ込もうなどとは思わず、バームクーヘンという小さな幸せを、死という人生の結末とともに携えながら、身近な山へと歩いていくようだ。鉄道なんてきっと乗らないようなハイキングのように私には見える。けっきょくのところ、人間はそれぞれに死を抱え、それを意識したり忘れたりしながら、気の合うどうし肩を並べて、ゆっくり自分の足で歩けるところへ歩いていくしかない。
*引用は現代短歌クラシックス版(書肆侃侃房、2020)によった。
