胃の底に石鹸ひとつ落ちてゐて溶け終はるまでを記憶と呼べり

田口綾子『かざぐるま』
(短歌研究社、2018)

今日とりあげたのは、歌のありよう自体が、石鹸のようにひっかかるところのない、口あたり(?)のなめらかな一首ではあるのだが、しかし書かれていることの意味を考えれば、この「記憶」は主人公にとってきっといつまでもつづくにがみのようなものだったにちがいと思う。なにしろその記憶の正体は石鹸だというのだから。

たしかに、舶来のめずらしいお菓子のように見えなくもない、つるんと白くていい匂いのするものが生活の中にある。その、見た目のやさしさ、好ましさを信じて、ひとたび口の中に入れ、のみこんでしまうと、その石鹸はまっとうには消化できずに胃の中に残る。消化しない代わりに、石鹸の成分が消化器に充満し、すこしずつ体にしみこんでいく。そうなれば、この人のげっぷやおならも石鹸の匂いになるかもしれないし、それに気づいた人々は感心するかもしれないが、本人の体調は悪化している。その石鹸がぜんぶ体の中に溶けてしまって、やっとすっきりしたと思っても、悪い影響はいつまでも残りそうに思う。……そんな「記憶」のことが、ここにはうたわれている。

その記憶、とはなんなのか。掲出歌は「ゆきだるま」という一連の冒頭にあって、のちに続く歌を読み込んでいけば、ヒントが隠されているようだ。

祖父の記憶は雪に近づきわたくしはピエロの顔をしたゆきだるま
コンビニで切手購ふ生活にふるさとからの風吹いてゐる

つまり「記憶」とはふるさとのことであるらしい。主人公はふるさとから東京に出てきて、文字どおり孤軍奮闘するのだけれど、どうしても容易には「消化」しきれぬかたまりとして、胃の中にはふるさとという記憶を持ち続けている。まるで掲出歌と対を成すような一首目。掲出歌で主人公の抱える記憶が石鹸に例えられたのに対し、ふるさとに残してきた祖父の持ち続けているのは雪のようにいつあとかたもなく消えてもおかしくない記憶。歌の後半に、重ねてゆきだるまに例えられる主人公の顔立ちは、日常的には会えなくなった今、祖父の記憶の中ですではかなげになっている。そんなふるさとに対するかすかな罪悪感が歌われているように思う。むかしの文学者のように、両親や家族と大喧嘩をして東京に出てきたのではないにしろ、ふるさとの記憶は主人公の心のなかに、ほんとうならいつか「消化」しなければならなかった課題として残されているらしい。石鹸という一見このましい姿を取るその記憶は、しかし石鹸である以上どうしてもまっとうに消化することは難しい。

わすれものはそのわすれられしことなどをわすれしのちに雲をなすらむ
ふるさとの明日の予報に開きゐる青くてあれは誰の雨傘
納豆を食はずに帰京することも別にいいやと言ふほどの距離
「茨城」の漢字も書けぬど阿呆は寄るな触るなこつちに来るな

『かざぐるま』にうたわれるふるさとは、難解なものなどひとつもないのにどれも清新だ。天気予報に映し出される雨傘は、きっと誰かのふるさとで待っている人がさしているものだという二首目。三四首目は、同郷の私としてはちょっとこっぱずかしい感じがしないでもないが、三種目のほうは誰もが感心して話を聞きたがるほど遠いふるさとではない、茨城のなんてことなさをうまく掬い上げているし、四首目は掲出歌に歌われているいるような目には見えないかすかな心の傷を、途方もなく明るく歌っている。

一首目の「わすれもの」は、必ずしもふるさとのことではなく、むしろ歌集の中で読むと、親しい人が離れていこうとするときの、主人公自身のように読めるのだが、韻律のよさもあいまって、掲出歌とはまるでふたごのようにみえる歌。主人公の精神とふるさととはやっぱり地下道のような秘密の道でつながっていて、主人公が「わすれもの」にされるとき、自分がわすれものにしていたふるさとが逆流してくるのではないか。自分が忘れていったふるさとの空に、点々と羊雲が泳いでいる。そんな映像が頭に浮かんだ。

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