吉川宏志『青蟬』
(砂子屋書房、1995)
ときに危機を迎えながらもいやおうなく進んでいく恋人との関係、そして結婚、さらには子供の誕生までを描いているのが吉川宏志の第一歌集『青蟬』である。掲出歌は終盤の「君と住む部屋」という一連にあるのだが、これはまだ妻の懐妊する前の段階。これよりもさらに四十ページほどあとの「雪の玉」という一連に
背を向けて鰤を煮る妻くずかごに妊娠検査紙捨てられており
といった歌があらわれて、妻の懐妊がいよいよ既成事実化する。だから、掲出歌の段階で「蛾の産卵のごと」と語られるのは、表むきはあくまで箱から本を取り出す妻のしぐさへの比喩でしかないのだが、それでも、歌集を最後まで読み切ったあとにふりかえると、この歌が妻の妊娠という展開を予告していたのだと考えてみたくなる。
今日の一首から私の連想したのが「I was born」(1952年)という吉野弘の有名な詩。口が退化し食物もとらないまま腹に卵をため込んでいく蜉蝣の生態にまつわる父子の会話から、息子を産みまもなく亡くなった母の存在が明らかになる。「——ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた僕の肉体——。」という詩の結びから、もはや人間の意志からは手の届かないところにある生や死、そして生殖という機能を持たされた身体を自分たちもまた持っているということへのある種の恐怖がにじみ出ている。
ひるがえって、掲出歌に語られるバタバタという産卵の姿がイメージされるのは、なんといってもカイコガのそれであろう。カイコやその先祖にあたるヤママユも、成虫は食事をとることがなく交尾や産卵に専念する。もっとも、掲出歌には「I was born」とくらべればかなり気楽な雰囲気もあるのだが、主体がふとした妻のしぐさから、結婚や出産、子育てへとまるでプログラムされたようにライフイベントを重ねる人生というものの不気味さを感じ取ったのではないか、どうもそんな気がするのである。
天井を蠅は歩めりかすかなる反重力にまもられながら
茶色き蛾三角形に泊まりいるこのふるさとで我は働かず
紫陽花に吸いつきおりしかたつむり動きはじめて前後が生ず
春蟬のようなあなたと野に座るパンには雨がしみこんでいた
「『青蟬』とは漢語でヒグラシのことであるが、訓読みにして歌集名とした」と、あとがきには紹介されている。虫の名を歌集題に挙げているだけあって、昆虫や蜥蜴、かたつむりといった小動物たちは、主人公がライフイベントをいくつも通過していく背面で、ときに実景として詠まれ、またときに比喩としてふたりの生活にたえず接近してくる。虫というものはよくよく考えるとどれも不気味な生態を持っているのだが、しかし恋愛から段階を経て結婚をし、仕事をしたりしながらふたりきりひとつの部屋に暮らしているといつか子供が生まれる、そういう人間の〈生態〉もよっぽど不気味なものだ。とくにこの歌集の主人公は、そのプログラムにいつしかまんまと乗せられながら、ときどき我にかえって立ち止まろうとするような瞬間がある。いつもそばにありながら人間の生活とは決して混合しないはずの虫たちの世界が、その〈我にかえった〉瞬間まざりあう。その決定的な瞬間が今日の一首にとらえられていたように思えるのだ。