森尻理恵『グリーンフラッシュ』
(青磁社、2002)
朝目を覚ますと、真っ先に視界に入ってくる天井に、光のゆらめきを見つけることがたしかにある。朝の光が複雑に反射して生み出されるらしいそれは、いつもいびつな形をしていて、色がついていたりもする。天気や時季などあんがい複雑な要因があって、毎朝同じ時間にそこを見れば同じ光の渦を見られるかといえば、どうもそうではないようだ。
掲出歌を含む一連「タイムスリップ」より。
くすんくすんと甘える泣きかた連発す母の時間をかすめとらむと
目は鼻は眉はどっちに似ていると日毎に変わる祖父母の会話
細き目の劣等感に悩みきしわれの子の目の細く開きたり
なんとなくタイムスリップしたような自分に似た子に笑いかけられ
二十代の終わりに短歌を始めたという作者の第一歌集であるが、主題はキャリアを築き続けることと子育ての両立の難しさ、そして女性ばかりにその負担をおわせようとする社会の理不尽であると言っていい。そんな苦い日常の連続の中に、しかし、思いがけず宝石のような歌が、ところどころ嵌めこまれていることに読者は気づくだろうか。
先に抄出した一連「タイムスリップ」には、子育てのふとした瞬間、子の顔に、しぐさに、自分の顔に似たところを発見する、そんなことが歌ごとに角度を変えながら詠まれている。ふつうならその気づきは、うれしいような、くすぐったいような、ほのあかるく幸せな題材になりそうなところを、歌を詠む作者のまなざしは、〈幸せ〉だけでは決してこの気づきを手放すことはできない。たとえば、自分に似ていることから、若いころの劣等感が思い出される。あるいは自分に似ているから義父母には「疎まれる」のではないかという疑念。
一方で、「タイムスリップ」の第一首目にある掲出歌を私がおもしろいと思うのは、単に容貌が似ているというのではない、もっと大きなレベルでの母子の〈似ている〉がここにさりげなく埋め込まれているからだ。というのも、歌集中の別の連には次のような一首がある。
一瞬の閃光みどりに海をはしる赤道に太陽沈みきるとき
『グリーンフラッシュ』という歌集題はこの歌からとられているという。これは「水平線から消えようとする太陽が最後に放つ光」のこと。作者は元来「個体地球物理学」の研究者として、国の研究所に勤めながらしばしば観測航海へ出ていたが、その折の1992年にグリーンフラッシュを見たという。その日、操舵室から夕陽を見ていると、赤道に太陽が沈んだ瞬間、海面に緑の閃光が走った。20年の経験がある航海士に聞いても、自分もこれを見たのは三回目だと言われた——。そんなエピソードが「あとがき」にある。
波頭の白きうねりは海に砕け蝶舞うかたちに翔び戯れる
日本は遠し船上に見上げれば南十字星の輝きており
ゆうらりと船は大きく傾いてカップのコーヒー慌ててすする
航海が詠まれるのは、序盤のほんの一部分。その後は子育てと(もはやとても長い航海に出ることなど不可能であることは前提とした)研究生活の両立のための苦闘へと突き進んでいく。歌集の主人公(=著者、といってこの歌集の場合はほぼ問題ないのだろうが)は、掲出歌の「みどり児の大発見」に、グリーンフラッシュを見たときの自分を重ね合わせていたかもしれない。グリーンフラッシュは日没の一瞬だが、子の大発見は朝の光だった。あきらめかけた自分の夢を、せめてこの子はあきらめることがないようにという気持ち、そう美談にしてしまうのは簡単だけれど、むしろもっと単純に、クレヨンの「ひっかき絵」のごとく黒いところをひっかくと夢のような色彩の記憶があらわれる、そんな日常の描かれ方に私はなんだか感銘を受けたのだった。