𠮷田恭大『光と私語』
(いぬのせなか座、2019)
そのむかし短歌総合誌で「なるほど短歌」という特集の組まれたことがあったと記憶しているのだが、たぶんこういう歌のことをいったのだろう。なにしろ、そのおもしろさを理屈で説明したくなるようなところがこの歌にはたしかにある。たいていの人にとって、恋人というのはゼロ人かひとりで、ときにふたりやさんにんいることがあっても、自分にとって「恋人じゃない人」のほうが世の中にはだんぜん多いにきまっている。だから「春になるまで」続けるつもりで、頭に浮かぶ名前という名前を手当たり次第に挙げていく。恋人じゃない友人・知人の名からはじまり、しだいに芸能人、文化人、政治家などにもおよんでいくだろう。
それにしてもこの歌のなかほどに「、」があるのは気になる。
恋人じゃない人の名を挙げてって春になるまで続けるつもり
という歌であれば、単に主体が意思表示をする一貫したひとつのことばになるはずのところ、「、」が挿入されることによって、掲出歌は前後半に区切られている。すると「、」以前の〈恋人じゃない人の名を挙げて〉の部分が、主体にそういうミッションを下すだれかのせりふに見えてこないだろうか。
このミッションを下しているのが、主体の恋人その人であるとすれば、まことに都合がよい。八十億個の人名から、恋人じゃない名前がひとつずつ挙げられていき、春になるころにはたったひとつ自分の名前だけが残されるであろうという、この緩慢なあそび。「じゃない」名前を次々に言い連ねていく恋人の表情をみながら、今、「元恋人」の名前を言ったんじゃないかと考えてみたりする。あるいは、夢中で名前を挙げていくうちに、ついうっかりよりによって恋人の名前を言ってしまうときがある。そうなればきっとなにか罰がくだされる——。
これまでの恋人がみな埋められているんだそこが江の島だから
最中には右脳の側で市が立ち左脳から沢山人が来る
飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬も一瞬のこと
恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所
本は木々には還らぬとして(知らないが)あなたのことをあなたより好き
恋人という特別な存在と、彼らの周囲を塊のようになってとりまいている大多数の「じゃない」人々との差を見極めようとする歌が『光と私語』にいくつかある。その見極めに、名前は重要なツールになるようだ。一首目の、恋人から「じゃない」へと降格させられたかつての恋人たちは、もはや固有の名を奪われたままある場所に埋められている。ほんの慰めのように立てられる墓標は「江の島」という固有名詞だ。一方で、五首目の「本は木々に還らぬとして」は、言葉の刷り込まれた本が、木に戻ることがないように、いちど恋人になれば「じゃない」に戻ることはないはずだという道理を語っているように見えるのだが、(知らないが)というあきらめとシラケがすぐに続いてしまう。「あなたのことがあなたより好き」という混乱にすでに破滅の予感が萌しているようだ。共同住宅を連想させる四首目にも暗示されているように、現代社会では恋人と「じゃない」人々の差はせいぜい主体にとって認識できる名前を持っているかいないかくらいの差しかなくて、いつ恋人と「じゃない」がとってかわられるかもわからない。
そう考えていくと、掲出歌のちがった意味あいも見えてくる。「じゃない」人々の名前を片っ端から言わせるという恋人のミッションは、自分たちにとって無名であるはずの「じゃない」人々も実はそれぞれが名前を持っている、つまりはいつ自分にとって変わられてもおかしくないなのだと確認するためのものでもあったのではないか。いや、もっといえば、今いる恋人との関係の継続なんてほんとうはどうでもよいのかもしれない。もっと本質的なところでは、けっきょくは誰しも頭ひとつとびぬけた特別な存在になんてなれない、自分も有象無象の群衆の中の「じゃない」のひとつにすぎないのだという現代の苦み。それを自分自身に刻み込もうとする、これは春まで続く長い長い自傷行為なのではないか。
