うなだれてみな終電にねむりゐる しんじつとはさぶしき囊

本田一弘『銀の鶴』
(雁書館、2000)

ペナルティーゴール決めんとボール置く背中にあつき視線が刺さる
止まるまで俺は止まらぬ、敵よ、俺を倒せるならば倒してみせよ
ノーサイドの笛響きたりかたくかたく泥にまみれし手を握りあふ

この第一歌集『銀の鶴』の、特にはじめのほうに載っている学生時代の作品と思しき歌の多くはとにもかくにもストレートだ。ストレートで、とにかく力が強い。ここに引いた三首はなかでも歌集序盤の「ダイビングトライ」というラグビーの試合の顚末を描いた作品——いや顚末というほどの特別な経緯はここにはない。男たちの体のぶつかり合い、そして試合が終れば文字通りノーサイドとなって敵味方ががっしりと手を握りあう。ここに近代文学的な葛藤する「われ」の面影はみえづらい。——そういえば作中に使われている一人称も、短歌らしい「我」や「吾」にまじって、ついいつもの癖でといった調子で「俺」のでてくる瞬間がある。なるほどここにあるのは「われの文学」ではなくって、「俺の文学」なのである。

もっとも、「倒せるならば倒してみせよ」という字面では百パーセントの自信、あるいは観客たちの視線を今、「俺」が一身に浴びているのだと背中で感じとるその刹那が描きとられるとき、なぜだか、すぐ隣にまで迫ってきている挫折の気配を感じ取ってしまうのは、私だけだろうか。短歌という定型の、これも不思議な効果のひとつであるのか、あるいは、私が近代的葛藤に満ちた「われの文学」を読みすぎていて、ノンアルコールビールを飲んでもごくわずかに酔ったような感覚におちいるのと同じように、挫折ゼロパーセントの歌を読んでも挫折の匂いを感じてしまうのだろうか。

じっさい、この歌集の序盤にはすくなくともラグビーに関する挫折はない。しかし、歌集の第Ⅱ章にいたり、歌の主題がスポーツや青春から離れ、主人公が就職をすると、人生のかなりの時間と労力を仕事に捧げなければならないということを真剣に悩み始めるような感触がある。

通勤の電車にわれら背を押され家畜のごとく詰められてゆく
満員の電車に揺られお互ひに何処とはあらぬ方を見てをり
死亡欄の死因確かめ過労死の一人出でたる職場へ急ぐ
死ののちのわが目閉づるは誰ならむみひらかれたるままにあらずや

掲出歌をふくむこの連には「死亡欄」というタイトルが付けられている。「過労死」で亡くなったのは「昨日会ひし総務課長」だったらしいことがほかの歌からわかるのだが、この連作の中ではその人への哀悼もそこそこに、いつしかその「死」は、四首目に言うように自分の将来の死への危惧に変容していく。主人公は体をぼろぼろにして働きながら、ここでいよいよ葛藤する「われ」を獲得することになる。ここで、しかし仕事そのものを詠まずに、やはり同様に過酷な毎日の通勤を詠んでいるのは特徴的だ。一・二首目を含め、通勤電車を詠むいくつかの歌は、身体性の協調という意味で先に紹介したラグビーの試合の歌と不思議に似通っている。帰りの電車の中で、「うなだれてみな終電にねむりゐる」という掲出歌。これはもうそのまま、ラグビーの試合終了とともにノーサイドとなってお互いをたたえあったあの歌と、ほとんど同じように見える。ねむっているのに(!)、ねむったまま仲間たちと互いにたたえあうことを欲しているような雰囲気がある。たたえる相手には総務課長も含まれているのかもしれない。しかし、不幸にも亡くなった人も、今まさに企業戦士として戦っている人々も、丸ごと包み込むようなやりかたをとるのがこの主人公なのだろう。もちろんここでも、自分自身の死への危惧は完全に消えたわけではないのだとおもう。歌の後半では頭脳は単なる疲れ切った身体の一部となり、さらに単なる「さぶしき(ふくろ)」という物質にまで変ってしまう。と、同時に主人公は、どうしても持て余してしまうのだとでもいうように葛藤する「われ」の頭脳をうなだれているようだ。

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