里見佳保『リカ先生の夏』
(角川書店、2004)
煮魚の小骨くらいのたわいなさとは、いったいどれくらいのたわいなさであるか。それってほんとうにたわいないのか? 魚の小骨といわれると、それが食べた人のノドに引っかかるような状況をつい考える。ひとたびのどに引っかかるってしまうと、その小ささよりもずっと大きな違和感を残すことだろう。放っておけばそのうち気にならなくなるものかもしれないけれど、意識し続けると我慢できないような歯がゆさ。結局この歌は、「たわいなく」感じているふりをしながら、心の内では「たわいなく」なんてないぞ! と力の限り叫んでいる歌なのではないか。
今日の一首は歌集の最後に収められた「鬼あそび」という全五十首の長い一連に収められている。
今宵より二世紀のちもこの場所で逢う約束をする梅祭り
わたくしが夜叉の姿であった世にほおずき喰んだ記憶は消えず
手触りの不確かな恋そういえば最初に好きになったのは声
梵鐘は遠く遠くに波立ちて春の時間を面長にする
夕暮れをゆるく留めたるまち針のように街灯ともり始める
この一連を読んでいても、掲出歌にいう「君」とはどういう人なのかほとんどわからない。でもなんとなく、主人公が淡い恋の渦中にいるらしいということはわかる。短歌というのは具体的なエピソードや固有名詞を入れることによって、単純な情報として以上に、ほんとうにそんな人がいたんだという感覚を読者に与えることができるものなのだけれど、作者は絶妙なコントロールを続けることで、余分な情報を読者に与えることをあえて避けているように見える。「君」の声がどんな声なのかは言わない。でも、声を最初に好きになったということだけは教えてくれる。それにしても、相手の身体から離れたもっとも不確かで、すぐに消えてしまうような「声」を好きになったというのだ。
引用の一首目や四首目には、どうにかして時間を引き延ばしたいという願望が現れているようだ。梅祭りとか「二世紀のち」という一応の具体をここで出してくるわけだけれど、二〇〇年後だなんて(!)、これはもうほとんど荒唐無稽な「約束」である。むしろ果たされるはずのない約束をあえてすることで、約束が消化されないかぎり自分はずっと恋という夢の中にいられるということだろうか。しかし、前世の記憶への言及が二首目にあるように、この主人公にはそういう巨大な時間の流れのなかに今の自分を位置づける特殊な能力があって、だから「二世紀のち」の約束をするのも実は、この人にとっては自然なことなのかもしれない。けれど、世界はあいかわらずあわただしく流れ続けてしまう。街灯をまち針にたとえる五首目は、その流れをどうにか止めようとする歌だ。この夕暮れを主人公の記憶に、ピンでとめてしまいたい。すると、今主人公は、「君」とともにこの道を歩いているはず――そんな風に、徐々に見え始めてくるものがある。街灯は主人公と「君」との関係をせめて今のままとどめておきたいというピンでもあるのだろう。
さて、掲出歌に戻ると、街灯といういかにも頑丈そうなものにたとえられていたそのピンが、煮魚の小骨にされてしまっている。君との関係への希望はいよいよ絶望的になって、それでも精一杯、せめて違和感の残る方法で記憶をとどめようということだろうか。しかし小骨がひっかかるのは、たぶん「君」ではなく主人公自身のノド。そこがなんともせつない。
