それからは専門学校生としてひとのからだを曲げて暮らした

井口可奈『わるく思わないで』
(現代短歌社、2024)

2~3人いればだれかは持っているバンドエイド、と思っていたよ
ていねいな職務質問 熱帯夜から熱帯夜へと移動する

たとえばそこに三人いて、だれかは絆創膏を持っているかと思えば、自分も含めてだれも持っていなかった。その失望(?)を誰かにぶつけるわけにもいかずただ宙をさまよっている感じ。あるいは、蒸し暑い夜に長い散歩をするような気ままさは、実は誰かの監視と許可のもとに与えられた権利であるらしいと気付く瞬間。『わるく思わないで』という歌集に収められている、たとえばこのような歌たちには、若い人の気楽な暮らしが描かれているようでありながら、その実、自分が思っている世界とほんとうの世界とのズレに気づいてしまうことをひどく恐れたり、あるいはそのいっけん気ままな世界の中で自分がどれだけ生きながらえていけるかとひそかな危機感を抱く主人公の気持が宿っているように思えるのだった。

そんな歌集を読み進めるうちに出会ったのが、今日の一首。ひとの体を曲げる専門学校生というのを、たとえば、柔道整復師の資格を目指すような学校に通っている学生であろうかと考えてみる。しかし、この歌の言い回しには、なんだか変な感じがある。その人は、残りの人生を学生の身分のままえんえんと施術の練習を続けているというのか。いつまでも卒業のときはやってこないし、正式に資格を取ることもない。歌の終わりを「~ひとの体をまげて暮らしましたとさ めでたしめでたし」と言い換えてみたくなるような感じ。まるでこの人を取り巻く時間が、どうしても抜け出せない箱の中に入り込んでしまったかのような焦燥感を抱かないだろうか。もっとも、今専門学校生である本人にとっては、自分がプロの柔道整復師になる未来はまだ経験していないのだから、専門学校生のまま、仮の「めでたし」状態で生きているということになる。だから理屈としてはあっているのかもしれない。むしろ気ままな今に愛着を抱くあまり、学校を卒業した自分を想像できないのか、できるけれどしないのか。

まるで時間が止まったような、気ままでうすぐらい箱の中を抜け出せない、抜け出さない、抜け出したくない。ちょっとずつ角度は違うけれど、どうやらそんなニュアンスの歌たちがここにあると考えたとき、『わるく思わないで』という歌集のことが少しわかるような気がしたのだった。掲出歌が含まれるのは「春の夢」と題された四十首ほどの長大な一連だが、この中からもう少し引いてみることにする。

わたしたちこのままでいいのかなって洗剤を買い換えまくっている
長い川だったそんなの知らなくてちょっと連れ添うだけのつもりで
スタンドバイミーのあらすじ書いて春はまだ続くのだろうボートの多さ

今の気ままな暮らしをぼんやりと愛しながら、しかしそのままでいてはいけないのだろうなという焦燥感、でもまだしばらく続くのだろうという淡い確信が、この一連にはかなり色濃く、繰り返し歌われている。「洗剤を買い換えまくっている」。そんなことで「気まま」からとうてい抜け出せないのはわかっていながら、まるで抜け出す努力であるかのように「買い換え」を繰り返しもする。

歌集を終わりまで読み続けても、そんな気ままな今への劇的な変化はうたわれない。――うたわれないと思いながら、おやと思う瞬間がある。

目玉焼きたまには服を脱がないでするのもいいねと言えば春霖
身長が伸びればいいねと言っちゃってごめんねわたし鶴になりたくて

ここにはいつの間にか大人の恋愛らしきものが登場するし、ついには誰かに向かって「身長が伸びればいいね」だなんて。気ままな暮らしに身を置き、決定打をみずから避け続けるかのようだったうたいぶりだったのに、結局は時間が、主人公をまっとうな場所にまで連れてきてしまう。でもそれが読者としてはちょっと寂しい。さらにその場所から主人公は「鶴」を目指すのだという向上心。でも、いたしかたない。自分でも不本意なのだとこっそり伝えてくるように、「ごめんね」というひそかなメッセージが添えられている。

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