上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』
(書肆侃侃房、2022)
幹線道路ぞいにある家の庭の柿の木なのだろうか。もちろん正岡子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」をふまえているのだけれど、簡単にいえば、ほんとうはこうなると信じていた自分(子規の俳句)に対して、ふたを開けたらこうだった自分(掲出歌)を示している一首ということなのだと思う。子規の俳句が「食へば」だったのに対し、この歌ではその柿を食べることさえできない。排気ガスにまみれた柿の木があって、りっぱに実っている。本来ならそこからこんな空気の悪い場所の柿を食べて大丈夫なのだろうかという段階になるのに、その前に「鐘ひとつ」がなってしまう。のど自慢の鐘も、いじわるにもサビに行く寸前にならされていたりした。はい、わかりました。もうけっこうです。そんな感じ。
以前、小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』の
空き缶を踏みつぶす音 この親にこの子と決めた神のゆびさき
を取り上げたのを思い出す。空き缶が転がっているような雑然とした場末の街に神さまが臨時事務所をひらき、その町内に生まれる子と親の組み合わせを、神の芸術的感性でもってつぎつぎに決めていく。無責任に決められてしまった生への憤りと、それでもその神のゆびの動きをくりかえし想像してしまうようなぬぐい切れない愛着が同居している。掲出歌にいうような環境はやはり柿の実にとっては不本意なはずで、その生の出発点をこちらの希望も聞かずに勝手に決めた誰かへの恨み(とやっぱりぬぐいきれない愛着)がこの歌の裏側に貼りついている。ある想念が「歌の裏側に貼りついている」ということをこれほど説明しやすい歌もない。なにしろ、この歌をひっくりかえすと、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」が貼りつけてあって、そこには仏様がいる。
だからここは、仏様への恨み、かというと事情はもっと複雑なように思う。子規の俳句の「鐘」はむろん、釣鐘だが、お寺の釣鐘とも、教会の塔にある鐘とも似ていないNHKのど自慢で秋山気清さんの鳴らしていたあれが、当然のように「鐘」と呼ばれているのが私は子供のころから不思議だった。お寺の鐘(梵鐘というのですね)は、天井からつるされた撞木(というらしい)を思い切り突いて鳴らすわけだから、きっと音色の調整が多彩にできるわけではない。それに対して、のど自慢の鐘は、まぎれもない楽器で(チューブラーベルというのだそうだ)、音階も奏でることができる。小坂井の歌で「神」がカードの組み合わせを考えるように親子の組み合わせを決めた作為は、上坂の歌では、梵鐘=仏様ではなく、「鐘」を自称するチューブラーベルの仕業なのではないか。神や仏のふりをした何者かが人間にも操作可能な装置を叩いている。たしかにその場所を排気ガスで汚染させているのは人間であって、神さまや仏様ではないのだ。
母は鳥 姉には獅子と羽根がありわたしは刺青がないという刺青
校則と信念は別という人の右肩上がりのきれいな眉毛
人生はこんなもんだよ 眉毛すら自由に剃れない星でぼくらは
メイド喫茶のピンクはヤニでくすんでて夢なんて見ない自由があった
だから、『老人ホームで死ぬほどモテたい』という歌集には、与えられた環境や条件など、実は絶対的なものではないということが繰り返し語られることになる。ニセの神や仏によって祭り上げられているそれを踏みにじること、そして、その難しさ。あるいは、排気ガスやたばこのヤニは、ニセの神仏に与えられたものの象徴のようだ。家族みながタトゥーを入れていたからと言って、はじめからそれが入って生まれてくるわけではないし、その気になれば案外簡単に自分好みへと踏みにじることができるというたとえとして「眉毛」をもってきたのも巧みである。ニセモノの神仏に与えられたと知りながらあえてそれを受け入れる選択をする人生の強さも三首目には語られている。