伜なる俺をときをり忘れをり忘れられしは涼しもたらちね

島田修三『東洋の秋』(2007年)

 

 

お母さんは年齢がすすみ、時々「俺」のことがわからなくなるようになった。
ああ、あれほどしっかりしていた母が哀れなとか、さびしいとかは、しかし言わない。

「忘れられしは涼しもたらちね」、このきびきびした語調に目がひかれる。
そして、涼しいという語の選び方。
いいんだよ、親なんて、ある意味、枷でもあるんだから、こうして身辺次第にすっきりしていくものさ、とでもいうところか。

しかしこのうたい方は、かえって、このようにしてぴたりと蓋をしてしまおうとする心のあり方を思わせる。

 

よく見れば最後は、「たらちね」。
垂乳根、その乳房でもって自分を育み、愛しんでくれた人。

また一首の頭は、「伜なる」。
オレは、伜だよ、他ならぬ伜だよ、とのっけから訴えている。

この下句には、“男の子”の精一杯のやせ我慢が、こうでも表すしか仕方のない思いが込められているのだ。

 

立派な大人の男が、こんな思いを隠し持つということは、切なくもあるが、また人間は信頼に足るという思いも誘うのである。

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