谷川由里子『サワーマッシュ』
(左右社、2021)
『サワーマッシュ』序盤に収められた一首。付近には、
勇敢な風だと思うこの風に浮き上がらない体も同じ
ほっぺたに当たる風にはほっぺたがある ずっと仲良しでいたいな
のような歌もあって、しばしば「風」を友人か同志であるかのように詠んでいるのがおもしろい。
今日の一首を読んで、強風の吹くそれこそふきっさらしの場所を歩いていく様子を私はイメージした。大きな風の動きにときどき体をもっていかれそうになりながら、しかし体に強風がぶつかるとそこだけ空気の流れが乱れて、友達にできるような小さな風が発生するのかもしれない。その小さな風の存在を感じ取って、手を取り合うように、大きな風の中を歩いていく。風に会いに行くのではなく、ふつうにどこか目的の場所があって歩いているならば、風の強いのは迷惑にちがいない。でも風を友人と思う(思っているかもしれない)主人公は、「からだをもっていることって実は特別なんじゃないか」と、あさってなことを考える。
風が友人だから、その体を持たない友のことをおもんぱかることができる。体を持っているという人間や動物たちの生のありかたさえも、実は特別なものなのだという気づきも得ることができる。この風の子にくらべれば、自分はなんと強靭で生きやすい体を持っているものだろう、と。しかし、強い風の吹きすさぶ中であれば、人間のように実態のある体を持っていることはむしろ障害で、風のほうが圧倒的に強い存在だ。自分も今すぐ、この体を捨ててしまえば、風の塊にいっしょに乗って、どこまでも走っていけるのに。
こんなことを書いているうち、私の頭の中に「千の風になって」が流れ始めてしまった。あれは、死んだ人は風になるんだ、お墓になんていないよ、という歌。私がここまで書いたのは、体を持つ生、持たない生、という対称のつもりだったけれど、たしかに、「人間が体を持っていられるのもほんの一瞬のことだ」という読みも成り立つ。生と死を考える主人公の周囲を、圧倒的に自由な風が取り巻いている。
いつの間に生い茂ったの、と見上げたら 風をこっちへ寄こしてくれた
ここに引いた歌は、「千の風になって」とは少しちがうけれど、死んだ人の(?)魂がススキかセイダカアワダチソウのような植物に宿っている。樹木ではないのがまたいい。魂はどんなささいなものにも宿ってしまうのだ。そんなどこにでも生えている草が、主体の存在にきづくと、ざわざわと合図のように風を送ってくれる。