一ノ関忠人『群鳥』
(角川書店、1995)
「父死す」と題しその経緯をうたった一連にある歌で、「四月二十二日早朝、容態急変。」と詞書が付されている。『セレクション歌人1 一ノ関忠人集』巻末にある著者の年譜によると、それは昭和が平成に改まった直後の一九八九年の四月二十二日のことだったようだ。父の死は、『群鳥』という歌集においてその後も主人公の脳裏にくりかえし浮き上がり、やがてだれもが決して逃れることのできない死というもの、つまり普遍的な「死」への想念へと広がっていく印象がある。
もっとも、今日はこの歌集に描かれる父の死をめぐる想念を見ていくことになる。掲出歌は、けっして繊細にうたわれた一首というわけではない。父のもとへ駆けつける電車内から見た光景だろうか、多摩川の流れ+父の危篤、という二物衝突の構成をとっている。二物衝突というのは、本来は関係のないふたつの事象を、ごくかすかな引力でたがいにひきあわせるような繊細な技法だと私は思っているが、この歌はめずらしくかなり大味な感じがある。「父のいのちの危急」は、ひとりの人生にとってやはり相当大きなできごとだ。
参考になると思えるのは、おなじ歌集中の「父死す」よりも前におかれている「多摩川往還」という一連。ここに、
多摩川を越ゆる電車はましぐらに丘陵ふかきくらやみに入る
多摩川の堰こす水のたぎついろ真旅するなきわれが見てゐる
武蔵 相模わかちてたぎつ多摩川のつねより濁り水ゆたかなり
といった歌がある。「堰」は河川の途中に設けられた水量を調整する施設、「たぎつ」は水が激しく流れるさまをいう。電車内から、ぼんやりと川のようすを観察している感じだろうか。ここではあくまで多摩川という都会に取り残された自然の姿が主題だ。二首目の「真旅」とは、本来の旅、とか、長旅の意味だと辞書にはある。
数ページ前に登場したこれらの歌を、今日の一首は引き受けているのだろう。先ほどの「真旅するなきわれ」とは、電車に乗って多摩川をまたぐようなちょこちょこと移動を繰り返し、旅らしい旅をすることのない自分のこと。そして、掲出歌に至って、父の危篤の報を受けた主人公は、それでもやはり同じように電車に乗り、あいかわらず「ゆたかな」多摩川を見下ろし、それを越えて父に会いにいく。正真正銘の「真旅」に出る父を見送っても、「真旅するなき」主人公は多摩川の両岸を行き来しながら、しばらく生きていかねばならない。
*引用は『セレクション歌人1 一ノ関忠人集』(邑書林、2005)より。その際、引用歌・詞書の正字を新字にあらためました。