横にいてこうして座っているだけで輪唱をするあまた素粒子

田中槐『ギャザー』
(短歌研究社、1998)

素粒子を「大辞泉」で引いたら、「物質を構成する最小の単位でそれ以上細かく分けられないもの」云々とある。歌の解釈のためには、それくらいの理解で充分なのだと思う。掲出歌を見ていると安藤美保の

君の眼に見られいるとき私はこまかき水の粒子に還る
『水の粒子』

が思い出されもする。「君」に見つめられるとき、自分という存在は水の粒子というもはや感情すらも宿りそうもない無機的な物質の単位にまで還元される。ひとしきり呆然となったのち、水の粒子のひとつぶひとひぶからそれまで閉じ込められ忘れられていた原初の感情が湧き上がってくるように思えたのではないか。

今日取り上げる田中槐の一首は、一読して同じような感情のうごめきをうたっているように思える。たとえば恋人どうしのようなふたりが並んで座っている。その〈私〉や〈君〉が現実に輪唱をしているわけではないだろう。〈君〉に恋をする〈私〉がその隣に座った。しかしここには〈君〉の反応や動作が描かれることはなくて、安藤美保の歌のように〈私〉は〈君〉に見つめられているというわけですらなさそうだ。それでも〈私〉は底から突き上げられるような恋心に襲われる。〈私〉の素粒子のひとつぶひとつぶが激しく揺れ動くように、その動きは実は物理的法則に裏付けられていて、とても当人の意志の力でどうにかできるものではない。

そして、『ギャザー』にはこんな歌も。

逃げてゆく君の背中に雪つぶて 冷たいかけら わたしだからね

ここでは「素粒子」のような用語は用いないけれど私の感情を雪という物質(ようするに水という物質のことさらに冷やされたもの)に変換して、〈君〉の背中に投げつけている。せめて〈見て〉くれればよかったのに、ほしい反応をしてくれないことへの仕返しのようでもある。

次に引く四首は「ガンマの夜」という一連から。

長い長い朝へとゆるり上りゆくエスカレーター誰もが無口
右側はあなたのために空けておく このステップはゆっくりと行け
限りなく続く階段 許されてにんげんとなる青い人々
そう、色も光であれば気まぐれな粒子がふっと駆け出してくる

階段やエスカレーターの光景がくりかえしうたわれて、月曜の朝の人々の出勤風景にも見えてくる。朝になれば出勤をする、駅のエスカレーターを、職場の階段をのぼってゆくというのは勤め人の基本的習性であるのだが、たとえば三首目の「許されてにんげんとなる青い人々」は、朝の光の中で水草の吐き出す酸素の泡が、明るい水面に向かってあがってゆく、その姿がいつしか人間のサラリーマンたちに転換されような光景をイメージする。そのなかでひとつだけ駆け足に上がっていく「気まぐれな粒子」はきっと恋というエネルギーを帯びていることだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です