今井聡『茶色い瞳』
(六花書林、2022)
妙な歌だといわれればそうである。むかし、ゆうこりん(小倉優子さん)が、自分はこりん星から来たとしきりに言っていたことがあったから、もしかすると彼女のことを詠んだ一首であるのか。でも、「ひと時のたのしみとして」なんて言い方していたっけ?
しかし、人生なんて「ひと時のたのしみ」ほどにはかないもの。人は皆ふとした瞬間地球に生まれ出て、あっという間に死んでいく。そういうことであればこの一首はすべての人に共通する真理をうたっているようにも思われる。生あるものは皆ある種のこりん星からやって来て、そのこりん星へと還っていく。ゆうこりんはなにもおかしなことなど言っていなかったのだ。
チリ産のサーモン、切り身の端つこの脂しろきが特売品と
恋などは要らぬ歳とはおもひしが桜木のある道をたどれり
気がつけばドライフラワーとなりてゐしスターチス飾らむこの一夏を
今井聡は、奥村晃作を短歌の師にもつ歌人であるが、ここに引いたような『茶色い瞳』の収録歌にたしかに奥村流の「ただごと歌」の系譜を見出すことはできるだろう。日常のひとコマを三十一音の小さな枠にトリミングしてそのまま提示する。小さく切り取られた場面はときに独特のおかしみを持つ。しかし、今井の作品はそれに主人公自身の人生の悲哀をほどよく付け足している。だからこの歌集では、部屋に飾った花をいつしか“ドライフラワー”にしてしまうという失敗を犯しても、その状況をそのまま認め、枯れた花をもそのまま愛で続ける。結果的に、失敗を犯した自分自身を肯定することにもなる。読者に小さな勇気を与える歌のあり方でもあろうかと思う。
そしてその肯定する歌人のまなざしが、ひとりの女性の不思議な発言をとらえたとき、それを等しい価値を持つ万物のなかのひとつとして歌に出力した。かくしてこんな不思議な歌が生まれたのである。
土中よりコンクリ片を掘り出せるショベルカーその動き精しも
石塊のひとつとなりて眠りたし踏まるるもなき深き谿間に
生きなさい 命の限り生きなさい 梅雨晴れのそらの風は告げつつ
殺すなと仏の御声 ごきかぶり、蠅、蚊、百足もわが殺すまじ
歌集中には仏教への親しみを示す歌もいくつかあって、この肯定するまなざしはそこに由来しているようにも思う。特にここに引いた三・四首目からは、肯定するということが単なるポジティブさにはとどまらない、語り手にとっての切実な祈りであることが察せられるであろう。歌集序盤と中盤から引いた一・二首目はたがいに呼応しているようにも見えるのだが、ひとつのコンクリ片としていつ掘り出されるかとおびえながら暮らすより、無条件に肯定し肯定される完全な世界に身を浸しながら泰然自若として生きていきたい。そんな願いであるのだと思う。