鈴木加成太『うすがみの銀河』
(角川文化振興財団、2022)
木の標本とはどのようなものだろう。木の種類によってかわる木材の色や筋の入り方を見せるような木片の見本をイメージした。無人の廃校舎の理科準備室、あるいは図工室かもしれないだろうか、とにかくそのような場所に、「木の標本」がずっと忘れられ打ち捨てられてあった。ある日とつぜん、その部屋の古い窓ガラスが割れ、潮の匂いの入り混じった風がふくよかに入り込んできた。潮風には、海にすむクジラや魚やプランクトンの生と死の匂いが含まれている。その生まれては死んでゆくという生命の循環の気配に触発され、「木の標本」がようやく目覚める。標本からそれぞれの枝や葉を茂らせる。やがて花を咲かせたものもあるだろう。かくして廃校舎の一室が、新緑の森のように華やぎはじめる。
過去形のひつじ雲浮く 廃校のとても小さな椅子にすわれば
月光を挽くのこぎりの刃はむかし図工の部屋の冬の窓辺に
ブラインドが冬の日差しを刻むときふるえる標本箱の蝶たち
体育館に木彫の校歌掲げられをり。かの波の来るまへの「海」
掲出歌が想起させた、廃校の一室の華やかな森。そんなもの幻想に過ぎないと言われればそうであろう。しかし幻想であることにこそ意味があるのかもしれない。「木の標本」たちは、生命の匂いをたたえる潮風に出会う前から、その堅い木質の内側に、校舎がまだ子供たちでにぎやかだった記憶も、また自分たちが森の一樹であったころの記憶をしまい込んでいた。あるいはここに引用したように、『うすがみの銀河』にときおり現れる学校をめぐる歌の数々には、いつも記憶というものがついて回る。今は錆ついて屋外に放置されているのだろうか、「月光を挽く」と表現されたのこぎりは、図工室の窓辺に置かれたまま聴いた子供たちのにぎやかな声を記憶している。標本箱に、冬の日差しがうっすらと降り注げば、しまわれている蝶の死骸たちが、ふたたび空を舞うことを望むように震えはじめる。そして、かつて子供だった人間の大人もその椅子に座れば、何の不安もなくぼんやりと空を眺めていられた日々を思い出すようだ。
ただし、このなかでは、体育館の「木彫の校歌」をうたった四首目だけは、おもむきを異にしている。これは歌集後半にある「石巻」という一連のなかの一首。かの波とは東日本大震災で同地を襲った津波のことだろう。その体育館に掲げられた校歌の歌詞に「海」がうたわれていたのだろうか。言葉はほんらい人間のものだけれど、人間が「かの波」の記憶ぬきに海を語れなくなった時代にも、その文字を刻まれた木だけは、幸福だった学校と海との記憶を愚直に掲げ続けている。