上から見ないとわからないならハート形なんて意味ないこんな湖

絹川柊佳『短歌になりたい』
(短歌研究社、2022)

たまたまハート形をしている湖を観光資源にした場所が国内外にいくつもあるらしい。ネットで見ていると北海道えりも町の「豊似湖」でおこなわれたヘリコプターによる遊覧飛行のレポートが出てきたりするのだが、そりゃたしかに湖の形なんて上から見なければわからない。湖がハート形だからといって、それだけの理由でそこへ出かけていく人がどれほどいるのかというのも私には少々疑問であるけれど、ともかく「ハート形」を楽しみにして出かけ、その湖畔に立ったとすれば、ふつうなら掲出歌のような心の叫びをするはめになるかもしれない。

と、ここまで書いてきて、ふーんなるほどと納得しただけでは、実はこの歌集の、この歌の意味は三割くらいしか理解できていないように思う。「こんな湖」という吐き捨て方。それはたぶん、こんな毎日、こんな人生、こんな青春、そういうところに通じているように思うのである。

別人になれる気がして買っていく巨大なピンクグレープフルーツ
カフェオレを服にこぼしたそのことが雨の火曜にちょうどよかった
観覧車見えれば何か懐かしい病院へ行く電車の窓に
海で遊んだ記憶のように死ぬことが懐かしくなるかがやきながら

『短歌になりたい』と題されたこの歌集を読んでいくと、自分の行動をそれこそ高い場所から俯瞰しているようなまなざしにしばしば気づくことになる。主人公をすこしだけかっこよくするには巨大なピンクグレープフルーツが必要。あるいは、カフェオレを服にこぼすなら、雨の火曜日がいい。それはまるで小説の作者が、アイテムやシチュエーションによって登場人物をより魅力的にするための審美眼を披露しているかのようだ。

あるいは、「懐かしい」という語の見える三・四首目。電車で病院で行くという現在に、「懐かしい」という感情を挿入することで、未来という高い場所から俯瞰しようとする。四首目になるとかなり複雑だが、「死ぬ」いう未来さえ、現在から逆照射するように「懐かし」むようになるようだ。

帰っても帰り足りない 薄い月 脱いでも脱いでも裸になれない

「脱いでも脱いでも裸になれない」はそうした自分の死をも俯瞰してしまうクセから自由になって、今という青春の日々に没頭したい、でもどうしてもそうできないという心の叫びではないのか。だとすれば俯瞰を捨てることが、本来の自分に「帰る」ことである。上から見ないとわからないならハート形なんて意味ない——掲出歌もそういっていた。本当は上からなんて見たくない。本当の自分自身で青春という湖の端っこにのんびりたたずんで、ただその景色を楽しんでいたい。本来ならそれだけでその日々の「ハート形」を実感できるはずなのだ。

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