誰ひとり未来の記憶を持たないでラストオーダー訪れている

『心がめあて』鈴木晴香

少し懐かしいミームで、しかもごく最近目にしたので思い出したのだけれど、「エージェントが特殊な光線を使って、姿を目撃した一般市民の記憶を抹消する」(メン・イン・ブラック)というものがある。ただ私はこの場面しか知らない。トミー・リー・ジョーンズが缶コーヒーを普及するべくいまも日本国内に潜んでいることは知っている。こう書けば面白おかしいばかりのように見えるのだけれど、これも遡れば大戦期や冷戦期のスパイにまつわる都市伝説、中には事実を伝えた逸話にこういったものがあったのかもしれない。苦い痕跡から映画表現の可能性を模索し、あるいは痕跡を意識に刷り込んでゆくことは、エンタテインメントでありながら拡がりを持ち心に残る作品であるための、伝統的な手法であるのだろうとは思う。

掲出歌からはそのミームの変奏を読み取れると思ったのである。一人で、あるいは内輪で食事をしているとき、飲食店のスタッフは厨房と客席とを接続するエージェントである。「ラストオーダーですけれど」と声を掛けられるときは、まさに目覚めの瞬間の先触れを意味する。近いうちに、やがていつか席を立たなければならない。その後にどんな未来が待ち受けていようと、人は立ちあがり目覚めなければならない。先の知れないおぼつかなさが、記憶を消されることと非常に似通った結果、「未来の記憶を持たない」というコンセプトが一首の中にうまれている。

時間とはほんらい主観的なものだ。あるいは、観測が不要、不可能なものと読み替えてもいい。意識の上でも、物理現象であっても、時間は確実に直線状にはながれていないので、たぶん物差しのような比喩はむしろ当てはめづらいのだと思う。「未来の記憶」というものも、定義困難な感覚の一種であるだろう。では、なぜこの場合これほどにしっくりと来るのか。何が起こっているのかといえば、「誰ひとり」と書かれているような別の客人の存在がある。席に何人で座っているかは知れなくても、そのとき客席で人はひとりではない。意識の外には、かならず別の人の計り知れない意識が無数に存在している。
この歌集でその状態がもっとも顕著となるのは、恋人と呼ばれる存在と連れ立っているときである。

時間にも遠近法は宿りつついつからかこちらだった左京区
手に入れるものはいつかは失くすものだからあなたを手渡さないで
誓わないと誓ってほしい 永遠をまだ誰も見たことがないから

この現象が時間の直線化を可能にする理由は二つあって、一つは他人の意識とのかかわりあいには、竹尺のような形状かはともかくそれなりの物差しが必要となること、もう一つは既知でない状態が起こりやすいことがある。未知が既知となることには、かならず不可逆性を伴う。その不可逆性を無効化できるのは、ゆいいつエージェントが持つ光の装置だけである。エージェントは本当はスクリーンの中にしかいない。秘密組織も宇宙人もあるわけない。人々は現実の時間を、遠近法でたぐりよせながらさまようばかりである。

またここにふたりで来ようと言うときのここというのは、時間のこと

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