屈折率同じほど人のかなしくて抱けばとおくゆうすげ騒ぐ

永田和宏『黄金分割』

 

思春期というのはこころと身体がばらばらな速度で成長していく時期だと思っているのだが、それは完全にわたしという人間の個人的経験に基づく定義である。一体化していたはずのこころと身体がどんどん引き剝がされ、ちぎれていくような感覚がほんとうに辛く、時間の流れていくことにものすごい反発を覚え、時間をどうやって止めようかと日々思っていた。そういう時期に西船橋の図書館で出会った一冊が『黄金分割』であり、この一首である。こういう出会いかたをした歌は、歌そのものが持っているものに加えて当時の自分の精神状態や記憶といったものが染みている。この歌を思いかえすとき、歌をよすがとして当時の自分や西船橋の図書館の湿った空気が一緒に匂ってくる。

屈折率は「真空中の光速を物質中の光速(より正確には位相速度)で割った値であり、物質中での光の進み方を記述する上での指標」だという。過去にも、今さっきも確認したのだけれど正直よくわからない。が、歌のうえではデフォルメされて一本の線になった人体の折れ曲がったイメージが浮かぶ。同じ折れ曲がりかたをしたふたつの人体(このときに人体はすでにデフォルメを解かれてふっくらとしたものになっている)が「抱く」という動詞のもとひとつにくっつく。「屈折率」の手がかりとしたものは一本の線になった人体だったけれど、「かなしくて」辺りまで来るとこの一語が自然にひとりとひとりのこころの歪みをも巻き込んだものになってくる。抱くことでふたつの身体がぴったりひとつになることは冷静に考えてみればないのだし、なおさらこころがぴったりくっつくこともない。ただ、最初に浮かんだデフォルメのイメージが生き残ることで隙間なくぴったりと一致した感覚が、濃いめのまぼろしとなって一瞬の夢を読者に見せてくれているような気がする。
ゆうすげがとおくで風に揺れているとしても、そこに喧騒はない。この一首に与えられているのはごく静かな時間である。

一首の読みとしてはこういうかたちになる。当時の自分もほとんど同じように読んでいたはずだが、当時はこの歌に救われているという気持ちが強かった。西船橋の図書館に行くたび必ずといっていいほど、『黄金分割』を棚から取り出し、この歌のページをひらいて二度三度読んで満足して棚に戻した。今にして思えば、ひとりの人間とひとりの人間の抱き合いの奥に自分自身のこころと身体の抱き合いを夢想して、救われた気持ちになっていたのかもしれない。

 

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