心をばひき絞りたるくれなゐか散り敷きてわれに死ねと言ふなり

『桜花の領』稲葉京子

「死ね」という言葉はまず人に対して使ってはいけないし、適当な使い方というのも本来はないはずだ。積極的に使わないほうがよいのはもちろん、必然に基づいて使ってよいわけでもない。よって、「本当はそう思ってはいないのだけれど」という解釈を残すやり方がひとつにはよくとられる。さて、掲出歌ではそういった言い訳とか前置きが挟まったうえで「死ね」と書いてあるかというと、そのような感じはしないのである。前後の歌から、このとき地上に散り敷かれているのは紅葉した萩の葉であることがわかる。もみじの葉は薄くて、紅葉するときには水分を失った感じにからからと枯れつつあることが多いように思うが、萩の葉は重みを増して朽ちていく感じ。その葉が地面に積もるとしたなら、心の投影として適当であるだろう。葉の側から「死ね」といわれたように、この人には聞こえている。このとき心のなかでこだました「死ね」の響きは、いまどう読んでも、生きることの志や充実を求めているようにしか読めない。死後の世界にも、静謐や充足があることを裏側で指し示しながら、取り残される生の側の野太さ、凄みによって、その世界は支えられている。このとき落葉から聞こえてきた「死ね」は、あくまで自己における咀嚼と反復であり、生と死が支えあっていること、そのメカニズムを知りたいと願う欲求をまっすぐに意味している。

看取りつつかりそめに伏す病舎の窓幾たびか青き驟雨は濡らす
火を放ちもしかへりなばいかにすと血の濃き者は問ひて詮なし
いづくにぞ鳴き飽かぬ野の鳩の声われは太祖の目覚めを得つつ

『桜花の領』では、老いた母に沿い、父の死を見送るさまが書かれている。しかしながら老境に近づき、触れるたびに作品に力が加わっているような読み心地を覚える。「看取りつつ」と「幾たびか」の展開からは、「看取り」とははかない瞬間でなく持続的な営為であることを示しているように感じられる。火葬場でとっさに口をついた冗談のような「もし甦りなばいかにす」もなにやら妙な手ごたえである。「血の濃き者」はこの人じしんであろうか。肉体はいずれ失われるけれど、ここでは肉体の喪失と、霊魂の持続が同時に行われる予感がするというか。こういう日々の中で朝方に聞こえてきた鳩の声はむろん太くて、目覚めるときに太祖の意識を得ているというのが興味深い。生を嚙みしめるという比喩の中でも、繊細で、かつふとぶととした噛み応えである。

屈まれるかたち嘆きの在り処父の墓辺の草を抜くなり

 

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