『草炎』安永蕗子
心地よい韻律をたちまちに受け入れてしまいながら、少し待たされる、考えさせられる一首。後で触れるけれども春先の残雪ではなく、冬にまだらに降っては溶ける雪の一部だと思う。この人はどこから雪を見ているのだろう。まずは「遠き日の我」におおいに引きずられつつ、「山かげ」もまた山の全体的なすがたを思わせるから、だいぶ距離があるのだろうか。それならば、「雪」もまた遠い場所に小さく見えている雪ということになる。そのような隔たりをもって対象と接するとき、「雪」に対して「我にあらずや」というような印象を持ちうるものだろうか。持ちうるとして、「遠き日の我」について、現在からどのように感じているのだろうか。
掲出歌は「巷間」という連作の冒頭におかれた作品で、以降も冬の風景が繰り返し書かれ展開される。
拒むもの多き日にち雪ふれば緋の外套のなかにやせゆく
世に聖き冬の亡骸一枚の冬田がひたと凍りつつあり
人居らぬ雪街上にゐて遊ぶ三匹の犬三匹の色
〈現在〉のこの人は、日ごと何かを拒否したいと考えているようだ。体が痩せてしまうと感じられるほど思い悩んでいると同時に、外套と体の間にできてしまったすきまに、何か厭わしい感覚がつきまとって覆いつくしていくような印象も受ける。さらに外には雪が降っているものだから、外套と世界が二重にこの人を縛っているが、はんたいに外套の中でだけは自由な身動きがとれているともいえるだろう。冬のあいだ使われない田のことは「亡骸」に例えられ、しかしほんらい伴うべき腐敗や荒廃の概念はすみやかに聖性にすり替えられている。死をもってとどまる側の時間がまるで信仰のように書かれている。「三匹の犬」はユーモラスで愛らしい。これもふしぎな光景で、人間はいない(野犬だろうか?)中で、対象としての三匹の犬は、とりどりの色をもって無邪気に、見る側の存在などいっさい意に介さずに遊んでいる。もう少し引こう。
白飯を噛む曖昧のなかにしてしるき憎悪となる梅の核
額あつき内部にひびきてわがほかの何の血潮をすすれといふや
巻貝のをぐらき肉を煮むとして共に軟禁のごとき冬逝く
「額あつき」の一首について読み方が難しいけれども、何か声のようなものが響いているのだろうか。他人の血潮をすすることはなかなか現実的に想像しがたく、かといってじしんの血潮を吸うのも相当なことだ。ただ、声だけがぐわぐわと頭をゆすっている。
こういった流れで、連作の全体を通して掲出歌の解題がなされてゆくような展開である。「遠き日の我」とはどのようなものか?……回答を正確に具体的にパラフレーズすることは困難だけれど、連作を通して感じたことや考えたことが、そのまま読者にとって「現在」となる。そのときテクストを通して望んだ雪のすがたは、この人がその日に眺めた雪と、かぎりなく同一のものとなる。
