本多真弓『猫は踏まずに』
東京の下町では毎年朝顔市が開催される。一度行って朝顔を買ったことがある。団十郎という茶色い朝顔が入った少し高いものを買ったのだが、秋にできる種を来年播けばまた花を見ることができるだろうというしたごころのもとに少し高いお金を出したのだった。秋になっても種ができなかった。花はどんどん咲いていくのに結局ひとつも種はできなかった。恐ろしかった。これが聞きなれない名前の新しい花だったらそういうものかと思ったのかもしれないが、朝顔である。下町で昔ながらの雰囲気のなかに売られていた朝顔である。けっこうなショックを受けてしまってそれ以降朝顔市で朝顔を買っていない。
この歌にそうした購入者側のショックはない。種の目的は最終的にはたくさんの新たな種を生むことであるはずなのに最終目的をあらかじめ省かれた種のことを、そういうものとして飲み込んでいる人の口調であると思う。
半年の通勤定期ちやんと買ふわたくしはいつも長女ですから
明滅をしない螢になりました気づかずにゆきすぎてください
半月を空は浮かべてゐるはずの夜をわたしは地下鉄でゆく
無駄な抵抗はしない。長女であることを、明滅しない螢であることを、地下鉄のなかにいるわたしを一切の抵抗なく受け入れているのだけれど、それは無自覚なわけではなく自身の置かれた状況を十二分に認識してのことである。そこにかすかな苦しさが芽生える。『猫は踏まずに』を読んでいるとその抑制された言葉運びには一人の人間が生きていくために選んだ、また選ばざるを得なかった生のポジショニングがむしろむきだしになって表れているのではないかと思われてくる。抑制によってみずからを包むような仕草をしながら、それがみずからをむきだすことにつながってゆくねじれ。そのねじれの不思議な手ざわりが『猫は踏まずに』の核心部分なのではないかという気がする。むきだすために包む。これは何か切実な営為にも感じられるのだが、その切実ささえ「ですます調」の丁寧な言葉づかいで包んでいこうとする気分があるように思う。
掲出歌もやはりねじれている。市場経済のからくりを飲み込みながら、飲み込むさまを歌にするときそのからくりは人目に晒されるものとなる。この一冊にはおびただしい数のねじれがしずかに転がっている。
