塚田千束『アスパラと潮騒』
いい歌には大雑把に分けると二種類あって、ひとつは一読いい歌だと思いその良さも(錯覚であれ)掴んだうえで納得できる歌であり、もうひとつはいい歌だと思いつつその良さがその時点では掴みきれない歌である。わたしにとって掲出歌は後者のいい歌に当たるのだが、こういう歌はこちらの脳に直接とどく香りのようなものがある。一首の全容を捉えきれないままその香りが脳にいい歌と思わせてくるのである。
こうした歌に出会うとゆっくり何度も読み直してしまう。そしてどんどん歌の魅力に吸い込まれてゆく。一読者としての情緒はこういう感じなのだが、一首鑑賞のコーナーなのできりっと切り替えて鑑賞するとすれば、まず目に留まるのがシチュエーションの不思議である。花火をする場所として浜辺や川辺はまっとうな場所である。この歌では「波」とあることから海に来て花火をしているのだと思う。しかし、「くるぶしを波に洗わせ」とあるので、浜辺で花火をしているのではない。浜辺より奥まで進んで、海に入って花火をしているということになる。実際にそいういうこともあるのかもしれないけれど、何か現実から剥がれたような感触があって波の揺らぎのイメージも重なりながら現実にしてはひどく不安定な足場がこの歌には与えられている。
「いつか死ぬことを手放すための手花火」、ひとは皆いつか死ぬのだが、いつか来る死の体験はそれほど問題ではなく、むしろ生きている最中に握りしめてしまう「いつか死ぬ」の概念に人は怯えさせられつづける。海のくらやみのなか手花火から火がほとばしる。手と花火の柄の部分は同化して、ほとばしる火こそてのひらとなり手の指となる。それはなにものも握りしめることのないてのひらであり手の指である。とはいっても花火は一瞬に毛が生えたくらいの時間内に終わる出来事で、終われば残骸となったものを水につけて手放すことになる。「いつか死ぬことを手放すための手花火」はそうやって手放される。ただし、その一瞬+αの時間を「いつか死ぬことを手放す」は真実であり、手花火が手放されたあともこの一首の香りとなって残っているのではないかという気がする。「いつか死ぬことを手放す」ことはきっと全うさることではない。としても、この歌にとっては言外の全うされなさ=一瞬+αの真実が歌の香りとしてこちらの脳に届けられるのだと思う。
遠き空よぎる鳥みなうつくしく輪郭だけはただしく生きよ