大きなるまんまろき円ひとつかきひとり眺めてありにけり昼

『雀の卵』北原白秋

「まんまろき」がインパクトを残す歌である。円を眺めたという以上のことは書かれていない。「眺めてありにけり」……と、いかにもからっぽまで放心しきったような、平坦な心のありようが書かれているようにみえる。心おきない静謐な空間が存在しているかのようにみえる。が、はたして創作者、実作者でありながら、こうした心持になることは可能なのだろうか。円はどこかから自然にやってきたものではない。これが室内だとしたら、まずは畳か机上かを整えて、紙と用具をそろえることが必要だ。文鎮も用意しなければ。ちょっとした隙間風でも薄い用紙が吹き飛んでしまうかもしれないから。ああ、もしかすると紙とは半紙ではなく原稿用紙だったのだろうか。これは何かの原稿を書きかけている最中だったのか。掲出歌のぼんやりとした、しかし決定的な書きぶりからは、あたかも無から有が自然とうまれるような、無なる世界に「私」だけがおり、なにもなかった空中にとつじょ「円」が降って湧いたかのような印象を受けるところだが、じっさいにはいまつらつらと書き連ねたように、「私」の身めぐりはすでにいやというほど事物にあふれている。

つねづね事物に全身をとりかこまれながら、たったひとつの「円」をみているだけでも、次から次に意味のない言葉やイメージの端くれが頭のなかでふつふつと沸き立って、あぶくのように生まれては消えることをやめられないのが創作者ではないのか。そういうあぶくのたった一つが、ほんの偶然としてこの世に生まれ出でようとし、かろうじて意識されたときに思わず書きつけられるものが「円」ではないのか。掲出歌のもたらすのどかな印象は、創作のプロセスや実感と反する。しかしそれは、またそういった創作の表情がありうるということを、突き詰めるための試みではないかとも感じられる。『雀の卵』は白秋中期の冒頭に位置付けられる(高野公彦)そうだが、ふつうにテクストの意味や味わいを追いかけることと同様に、そうした変遷期に作家が心を預けたらしい、キャンバスの筆致とか筆遣いのようなものが感じられる歌だと感じた。そのことが、この歌に平坦さ以上の迫力を加えている。

そういう角度で見ると、こうした歌も青年期の華やかな作品からの変奏というよりも、試み自体の置き場所を変化させている、盤面を動かしていくための作品ではないかと思える。

月の夜に水をかぶれば頭より金銀瑠璃こんごんるりの玉もこそちれ
この夜ことに星きららかに麻布の台霜らし声らふなり

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