はじめての表彰状に鳳凰は小さき花をくわえ向きあう

沼尻つた子『ウォータープルーフ』

 

日々のクオリアの一首を選ぶときは、だいたい歌集決め打ちで選んでいることが多い。今回は『ウォータープルーフ』から一首鑑賞しようと思って歌を読み返しつつ、あの歌も取り上げたい、この歌も取り上げたい、となってしまってなかなか一首が決まらない。『ウォータープルーフ』の一首と言われて真っ先に思い浮かぶのは

 

抗癌剤効かなくなりたる父と見し町内会のちんけな花火

 

で、この歌だってじっくり一首鑑賞したくなる作品なのだけれど、前回取り上げた『アスパラと潮騒』の一首も花火の歌であり、まだ夏でもないのに花火の歌二連続というのも気がひけてしまいうろうろとした末に表彰状の歌を選んだ。
この一首がおさめられた連作「そまつなこや」の一首目は

 

ゼッケンの2の尾を伸ばし3と書く去年の娘の青き水着に

 

である。娘が一首目に出てくること、また「くわえ向きあう」が現在形であることを考えて「はじめての表彰状」が娘に授与された表彰状だととった。わざわざ授与の対象者が誰なのか考えたのは、「はじめての」の入りがものすごくナチュラルで、歌のなかで表彰状を見ている人物が授与された当人のようにも思われるからである。ただ、表彰状をもらった本人というのは、そんなにまじまじと表彰状の造形を見つめたりしないのではないかと思う。詠みはじめでは娘となかば一体化しつつ、結句に向かってだんだんと娘から剥離していくような感覚。さらりと詠まれたように見える一首だが、歌の襞をたどれば娘と自身との関係の陰影が三十一音のなかに移ろっている。わたし自身、表彰状に対する解像度が低く紙の淵にうすい金色の帯が施されているのは気づきつつ、念のため画像を検索したらたしかにその金色の帯は鳳凰だったり龍のパターンもあった。表彰状によって鳳凰が花をくわえているもの、いないものがあり、そうかそうかと納得したのだった。

一首の気配から察するに、近くに娘はいない。娘のいない時間におそらくは丸まった表彰状を伸ばして見つめている。見つめているものは表彰状であると同時に娘の成長や頑張りでもあるのだろう。表彰状に鳳凰を見つけ、鳳凰がくわえる小さき花を見つけるまなざしの解像度の高さにこちらの気持ちがじんわりとしてくる。

 

レーヨンの黒とウールの黒ならび墓前に秋の風を受けおり
みずからの顔を齧らすヒーローの粒か漉かを思う昼過ぎ
とねりこの蔭の家にて母ひとり椅子七脚と暮らしていたり
人感のフットライトはしばらくを灯る 足首の過ぎた後にも

 

『ウォータープルーフ』の一首一首は花で言えば胡蝶蘭ではなく梅の花のようにこぢんまりとしている。しかしそれぞれが雪の結晶のようにさまざまな、思い思いのかたちとなって表れる自在さも持ち合わせている。得がたい自在さであるとあらためて感じる。

 

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