『つゆじも』斎藤茂吉
好きな食べ物や好きな場所を問うのと同じように、好きな色を質問することができ、多くの人が相応に答えをもっていることを不思議に思う。甘い味が好き、麺類が好き、うなぎが好きであるなど、そういう嗜好性が存在することはなんとなく理解できる。ごく素朴には、その食べ物を摂取したときに、より多く自身の喜びが得られるといったことなのだと思う。もちろん食べ物は分解していくとたんぱく質や糖質といったものの組み合わせであって、味覚に作用する匂いや見た目といった要素も、同じように分解できるはずだ。さまざまな要素の複雑な組み合わせによって、食べ物のおいしさや好みが説明できるはずだ。たぶん、色についても、光の三原色、RGBやCMYKだとか、同じように分解しようとして考えているから混乱するのだろう。あえて分解しようとするならば、食べ物に比べて、色というものはずっとシンプルで質素である。RGBならば赤・緑・青の組み合わせに過ぎず、それぞれに与えられたパラメータを色々変えてみると、かなり多くの種類の色が出力できる。PCであれば、スポイト機能を使って仮想的に同じ色を再現することもできる。こうしてつねにシンプルな同じ方法で大半の色を作り出せると思っているから、人によって好みの差が出ることを不思議に感じるのだ。
夕日の色を好きだなと思う。マジックアワーという表現を知ったときに衝撃を受けたが、暮れ方に一瞬だけよくわからない色になっていくところに出くわすと、なぜだか心が激しく揺さぶられる。一日が終わっていく寂しさ以上に、あきらかに空の色の変化に動揺していることが自覚される。ただ、あれだって、写真に収めて解析すれば、人間としてはそれほどの苦労もなく本当は何色と呼べばいいのかわかるのだろう。転地療養を終え、洋行に向かう直前という微妙な時期にあった茂吉も、飛騨の空を眺めていたらしい。掲出歌では「夕映」と述べられているだけで、何色なのかはわからない。『赤光』にある「赤」のようなインパクトはこの歌には出現しない。「しづかなるいろ」を「月」が照らすというのも変である。そうであるのに、どこを取っても何色でもない空がここにあること、その空の色がわかる、好きだと感じられる。
すんなりと言い換えてしまえば内省ということになる。「山水人間蟲魚」という奇妙なタイトルの連作には、こういう歌も含まれている。
諏訪のみづうみの泥ふかく住みしとふ蜆を食ひぬ友がなさけに
月の光いまだてらさず白雲は谷べにふかく沈みたるらし
「蜆」が泥の深い場所に住んでいることも、「白雲」が谷合に漂っていることも、想像の世界でしか起こっていない。かぎりなく事実と思われる言説を、想像の世界でもう一度立ち上げて、あたかも現実のように書くしぐさ。掲出歌も同じように、「しづかなるいろ」「月てらす」といった想像の要素をくわえたものである。やがて日本を後にしてからは「モハメッドの僧侶ひとりが路上にてただに太陽の礼拝をする」といったようにぞくぞくと現地の光景が歌となり、次に『遠遊』という歌集が控えているけれども、視点という意味ではすっかり「茂吉」が外部化されている。「茂吉」はカメラになっている。ただ掲出歌では、「茂吉」はカメラではなく、一種のスクリーンである。スクリーンに対する視点は誰というものでもなく、すっかり空と同じように溶け落ちて、恍惚とした混乱の中で一体化する。茂吉はカメラとスクリーンを行ったり来たりしている。これらの有り様や、生涯を通して出会った局面に応じた変化を作品において読み解くことが、作家として、人としてのスタンスを物語ることにつながると仮定するのは、少し行きすぎだろうか。