晩秋の風吹く丘の教会はヴェポラップ塗りし胸の涼しさ

北辻󠄀一展『無限遠点』

 

記憶は面白い。しっかりと時間に紐づけられているような顔をしながら、時間の推移とはでたらめに分布している。昨日食べた昼飯のことがすでにおぼろげであっても、ふと顔を上げればそこには何十年も前のミートソーススパゲティがぴかぴかしながら置かれていたりする。そして、寝て起きてしまえばぴかぴかのスパゲティはおそらくもうそこにはいない。思い出そうと思って思い出せるものでもなく、ただ、なんでもないときにものすごい彩度をもって突然目の前に現れたりする神出鬼没な特性が記憶にはある。

「ヴェポラップ」である。子どもの頃に咳がでて眠れない夜に塗ってもらったり自分で塗ったりする、塗ると胸がすーとなって、しだいに息のなかまですーすーする軟膏である。もちろん子ども専用ではないのだろうし大人が塗っても問題ないはずなのだが、大人になるにつれて日常からやさしく剥がれ落ちていくのがヴェポラップなのだと思う。晩秋の教会にそんなヴェポラップ(子どもの頃の記憶や体感)を感じ取っているのだけれど、この歌の差し当たっての不思議は「晩秋の風吹く」が近景っぽく一方で「丘の教会」が遠景っぽく感じられるところだろう。視線の発生源がどこに位置しているのか定かではない。教会に近いのか教会から遠いのか、そこを捕まえようとするともにょもにょとして逃げていく。こういう歌は歌会などで「作者がどこにいるのかわからない」と言われてしまうような作品なのだと思うのだが、下句はさらに飛ばしていてぐーんと教会に肉迫していき、自身はなかば教会と同化し合体ロボのようになっている。教会と自身の体感に分け隔てがなく胸の涼しさを感じているのは教会であり、自身であるというオーバーラップが完成している。ここまでやられてしまえば、「作者がどこにいるのかわからない」という批評は野暮である。この歌はそうした超現実的な動きを見せながら言葉の運びは写実一筋の歌人が詠んだような訥々とした雰囲気をまとっていて、そのことも興味深く、また、「塗りし」の「し」は過去を表す助動詞だとして、その過去は浅い過去ではなく深い過去なのだということも「ヴェポラップ」が教えてくれているように感じる。超現実的な動きにはなかなかのエネルギー量が必要で、それは短歌であれば言葉運びの躍動感となって表に出てきそうなところだけれど、そうした躍動は見当たらない。エネルギー量ほぼ0の状態からエネルギーをふんだんに使わないと出てこないだろう光景が生み出されていることに驚く。ふと顔を上げれば記憶のなかのミートソーススパゲティがそこにある、ということも言ってみれば使用されるエネルギー量ほぼ0の運動であって、なにかこの一首の運動と記憶の運動というのは通い合っているものなのだという気がする。すーすーと涼しく、かつ甘酸っぱい歌である。

 

巾着の古銭ひろげる愉しみよ梅雨らしく降る雨を聞きつつ

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です