ほのかなる水くだもののにほひにもかなしや心疲れむとする

『桐の花』北原白秋

当初「アルス」から1921(大正10)年に発行され、三十年近くを隔てて1949(昭和24)年に白玉書房から新版として出ている『白秋・茂吉互選歌集』がある。それぞれ選んだ歌をぼうっと眺めるのも面白いうえ、互いに寄せた序文がどうしても興味を引く。

僕は、「桐の花」「雲母集」「雀の卵」と順を追うて三四首ずつ歌を抄して、その変遷の跡を云々したが、いよいよとなれば、やはり『白秋もの』に帰着するのである。『白秋もの』とは何か。僕にもよくいひ表はせないが、品がよく、美しく、ぬけめ無く、細かく、何だかいひぶりが高貴のやうで、世の批評家のいふ人間味に乏しく、寂しき如くにして朗かで、陰鬱になり得なく、邪気なく、時には稚がり、しめじめとして、余韻ふかく、泣くにしても気持よく、敏活な言葉の採り入れ。

こういう文章を書かれると全文引用するほかない。殊に「人間味に乏しく」のくだりこそ、白秋の作品のむしろ胸を打つ側面がよく言い当てられていると感じた。茂吉の選歌ではあまり派手な作品は選ばれない傾向があるようで、掲出歌も静かな風景だと思う。しかし、『白秋もの』といわれてみればその通りだ。「ほのかなる水くだもの」という連携(「ほのかなる」は本来は「にほひ」に掛かるけれど、この表現からは淡い静物画のような想像が自然と起こる)は、「寂しき如くにして朗か」ではないだろうか。「心疲れむ」からはたしかに疲労感も感じるが、同時に日常のわずらわしさを想起させない高潔な印象も受ける。「かなし」「心疲れむ」は現代の、日ごろの生々しい雑事から起こるものではなく、精神的な懊悩をより強く指しているように思う。そういう態度はもしかしたら「人間味に乏し」いのかもしれないけれど、作品という世界の中では自由に行われるものだ。その自由さが「寂しき如くにして朗か」という矛盾を実現可能にする。

茂吉は「僕の歌は、『白秋もの』の模倣だと評されたことは一再にとどまらない」とも書いている。これに応じて、白秋から茂吉に宛てた序文では、同時代の親しいグループとして影響しあうのは当然だとか、お互いの視点は外から見るよりはるかに繊細であるといったことを書いている。現代では茂吉と白秋を読み比べてもこういう見方にはならないので、一種の感動があった。続けて白秋はこうも書いている。

ただ私は『桐の花』に於て、自分の歌といふものに飽き飽きとしてゐた私が、茂吉君の歌を初め、『アララギ』の万葉風の古典に接して、実際にかけ離れた別種の清新さにひかれたのはほんたうである。

白秋と茂吉が、互いを評するに高貴とか清新さという感想を抱いているところも意外だった。白秋の序文は新版の書籍で二十七ページもあり、やたら冗長でないかと感じなくもないのだが、「隙」とか「打ち込める」「打ち込めない」といった用語を使って茂吉の歌のよしあしを説明しているところも興味深い。人の文章を通して、人の短歌を読むことの楽しさがあまりに率直に素朴に、心おきなく感じられる。ちなみに新版の出た時点ではすでに白秋が物故しており、茂吉だけが跋文を寄せている。寂しすぎると思う。

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