凍星の光よ 夜毎夢に獅子来たりて喰い破るわがのみど

『koro』榊原紘

ジュエリーという文化はたしかに宝石が主役であり見どころなのだけれど、それを支持する地金のほうにこそ宝石に比肩するような技術がないと全体は完成しない。

なんときらきらの一首だろう。この歌の角度を変えながらどこを見つめても光らない場所がない。星が光るのは自明であるが、より外気温が低いほうが輝きは強く感じられる。ある晩ではなく、「夜毎」であれば星の光は力強い夜通しの瞬きに変わる。「喉」は多くの動物でひときわくびれた不思議な部位で、あんなにも弱点めいたものを堂々と晒す必要があるのかといういっぽうで、ゆえにその部位の露出は強さとか自信の象徴にもなりうるのだと思う。そうした喉を「獅子」が「喰い破る」ことで、夢は破綻して一首が丸く閉じる。要素が多いというか、助詞のたぐいを最小限にとどめる試みによって、要素のほとんどがスパンコール状に縫い付けられた作品だと思う。結句を詠嘆ではなく体言止めにすることで、スパンコールの素材を一つ増やすことができるのだとあらためて感じられる。ここにある光をもっともさかのぼれば、古く人が獅子座という意匠を夜空に認めたことに始まる(獅子座は「凍星」と季節があわないけれど、総じて四季の星座だということにしたい)。ヘラクレスとの争いに敗れた獅子は夜空に召し上げられ、ときに現代の夢に現れては喉を食い破るのだろう。短歌の言葉が「夢」として導出されるとき、作者がまだ「夢」であることに気づいていない場合と、すでに「夢」として自覚され現実と対比される場合がある。つまり、その境のグラデーションは短歌を通じて無数に生じつづけている。この人はいまわりと覚めていて、現実の朝から昨晩へ向かってけんめいに時間をさかのぼりながら、喉を食いちぎってくれる獅子の表情をもういちど夢見ている。獅子の偶像はほんらい平板な星座であり、その一点、遠い星の光る場所から、まざまざと獅子のイメージがやってくることは、ここには書かれない明晰な朝の光のなかで自覚される。言い換えるならば、韻文においてはイメージが理屈に裏付けられることで、強固で強靭になりうるということだ。

助詞を最小限にとどめたことで歌の輝きが成立していると書いたが、もう一つ、より見落とせない観点がある。「ひかりよ/よごと」「くいや/ぶるわがのみど」と二度にわたって句割れ句またがりが展開されているが、前者はただちに「光」に対する賛美となり、後者は「獅子」が喉を食い破るようなアクションの印象を強化する。意味を差し引いた韻律にすら大きな役割が与えられることで、いくつもの宝石が、偶然の神秘の中でもっとも光りかがやくよう緻密に台座に留められている。これは技術の光だと思う。

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