復旧の列車に大漁旗振れり過疎三陸の海べの人ら

柏崎驍二『北窓集』

 

『北窓集』の一首一首はなぜかしら白っぽく感じられる。言葉として色が入った歌ももちろんたくさんあるのだけれど、色という色が白の支配下にあるというか、白のバリエーションとしてあるというか、歌の源に白という色が湛えられているような気がページをめくるたびにするのである。

 

三陸の海のひかりを知るならむ鈍く光れる椿の黒実
あきづゆとなる雨は降りアンテナにゐる山鳩のあたまちひさし

 

椿の実の黒にもかかわらず、そこにひかりがおよび脱色されていくような変化が起きたり、秋梅雨の空の灰色も一首全体を俯瞰したときに白が勝っているように感じられる。これは歌に表される物質の相互作用という面もあると思うが、それ以上に歌のなかの口数の少なさによるものなのではないかとも思う。当然だれの作品でも短歌であればだいたい三十一音前後なので「口数」というのも変な話なのは承知の上で、『北窓集』の歌は口数が少ない。もしくは声量が大きくない。もしくは歌のなかの声にエコーがかかっておらずぽつぽつとした声の響きかたをする。歌から感じられる白っぽさはおそらく柏崎作品のそうした声の性質から来ているのではないだろうか。そこに『北窓集』ならではの引き締まった清らかさがあってしずかな滝に触れているような気持ちになる。

だいぶ前置きが長くなってしまったが、掲出歌。そんな白の濃淡で編まれた一冊のなかにこの一首だけは色彩が噴き出している。東日本大震災から数年を経た時期の作品である。長らく動いていなかった列車の復旧を祝って振られている大漁旗には跳ね上がる魚の姿とともに、すべてのものを奪っていった海も描かれていたはずである。たくさんの絵の具をひと息に絞りだしたように大漁旗がうねっている。一冊のなかで溜め込まれていた色彩が力強く溢れだしている。すべてのものを奪っていった海、その海が描かれた大漁旗を列車の復旧祝いに振る。三陸の人びとにとっての海がどういうものなのか、ということが理屈というよりも色彩のうねりとなってこちらへ入ってくる。もともと口数の少ない柏崎作品のなかにあって、この歌のふんだんな色づかいや色の持つ粘りけを思うに、これはきっと絶唱である。一首を読んだあとに目をつむっても大漁旗の色濃い靡きが繰り返し靡きつづける。

 

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