『この梅生ずべし』安立スハル
※引用元は正字使用
梅雨の時期の雨をそう嫌いにはなれないのは、それが毎年のことであって、日本という国ではほぼ全体が同じような天候に見舞われているという認識があるためであろう。台風の風雨が読み難い運勢であるならば、梅雨の雨は定められた運命である。どの人も同じように家の中からじっと雨模様を見定めるほかないだろうという想像は、あきらめと同時に希望でもある。梅雨の天候に行動を制約されるほど、そこにいない人とのつながりはかえって濃いものに感じられる。予想外の雨ではなく、あらかじめ予想された悪天の中を出ていき、あざやかに咲いた紫陽花の一群にふいに出会うようなときにも、やはり運命ということを思わずにはいられない。
豆腐のような感じで蜆もまた移動販売されていたらしい。おそらく盥かなにかにぎっしりと詰められた商品としての蜆がある。ちょうど蜆売りがやってきた時間に蜆を必要としたというめぐり合わせによって、この人が蜆を買うとき、蜆もまた、何かの因果によって同じ盥のなかをひしめいている。蜆が濡れているのは、一つは水産物であり、もう一つには梅雨の雨のなかを移動してきたためだ。二重に水没しながら「さえざえと」した澄んだ存在感を湛えているのは、ここにある蜆がどうしても、人間社会を引き写したもののように感じられるからだろう。この人と蜆売りが出会って取引を行った事実のように、蜆もまた、盥のなかで無数に出会い続けている。浅瀬にいたころには出会いようもなかった貝たちが出会い続けている。そうして、やがて売られて離れ離れになり調理されるというところまで、哀愁をともなう比喩のように感じてもよいだろうか。
ほかに面白かった歌を。表現として前面に押し出していないときも、社会と人間を特徴的に書いた歌人だとあらためて感じる。
枝豆の殻すてに来て仰がるる星の沈黙は空に満ちたり
わが畑に華やぐ十本の葉ぼたんをみな盗まれし夢より覚めつ
親切にされたる日より少しづつ少しづつ心その人を離る
みづからの無知を知るにも或程度の理知なるものを必要とする