西藤定『蓮池譜』
労働というのは往々にして恐ろしい出来事だと思っているが、『蓮池譜』に示される労働観はそうとうに熾烈でこの歌のなかでその熾烈さが凝縮している一語はやはり「残機」であるだろう。「後輩が残機に」という歌の出だしの速やかさからは遠い過去からはるばる引っぱり出した戦争の言葉としての「残機」というより、シューティングゲームのプレイヤーの口から出てくる言葉としての「残機」のほうが近いように思う。後輩という人間たちが攻撃機の乗組員に見えるという血の通いかたはせず、後輩たちは攻撃機そのものとなりしかもその攻撃機はプレイ画面のなかにある記号化した攻撃機であって重量を持っていない。プレイ中にしくじって残機がひとつ消えたとしても一瞬だけの悲しげな効果音が鳴って終わる。直前の歌は
首都高の高さの窓で息をつくあいつはだめですと俺も言う
である。残機は敵機に撃墜されるばかりでなく後ろから味方に撃墜される危険もある。生き残ることだけに圧倒的な価値があり、その他の思考や感情はふかく覆われているようにも感じられるのだが、そうした状況が歌にされている時点で何かを見透かしている人の目がそこにあるのだということになる。見透かしていない目の持ち主であれば「後輩が残機に見えている」という言語化まで至らずに後輩を残機として見ているはずで、労働環境に完全に心を預けてしまえたならいっそ楽になれるような気もするのだが、見透かす目が残っていることで余計に苦くくるしい。モニターの描写にしても、そこに埃がうすく積もっているのを感知している。「埃」は一般的には余裕のない状況を一首のなかで補強するアイテムになるけれど、それ以上にこの歌では見透かす目のことを感じさせるものとして作用しているはずである。労働環境に揉みこまれる自分とそれを少し高いところから見つめている自分が同時発生する苦しさが歌作という行為を通じてくっきりと表れている。
モニターに映っているものは何だろうか。プロジェクトの詳細かもしれないし、後輩たちの営業成績のようなものかもしれない。いずれにしても生き残るための何かをモニターに見つめながら、そのなかにあらかじめ失われることを想定された残機としての後輩たちを見、さらに少し高いところからその光景を見つめている自分がいる。
前屈を妨げる肉、まだつよく醜くなれる。わたしはなれる