『子午線の繭』前登志夫
※引用元は正字使用
「かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり」はこの歌集の冒頭に置かれている。はじめに印象から入るとするならば、以降の歌はすべて、この樹が大きく広げた幹、枝葉のひとつひとつ、光と影、かなしみと明るさを表裏にもつ葉の一枚ずつであるといえよう。そういう読み方がふさわしいのではないかと、私には感じられたのである。
『子午線の繭』は「樹」「オルフォイスの地方」「交霊」と題された三章から成っている。それぞれ異なる地域・神話にルーツをもつのだと思うが掲出歌は「オルフォイスの地方」から。この水もやはり「翳り」を秘めている。「われらの終り」と「われらのはじまり」は「終りはじまり」という接続によって直列でありながら並列し、全体の時間軸を大きく揺さぶり乱している。そのため、この「終りはじまり」を中心として、上句では「河に来るわれらの終り」の様子がほのかに描写され、下句では「はじまりの緑の河」の翳りが書かれる。それぞれ別々の時空の出来事であるだろう。または、「河に来るわれらの終りはじまり」があり、「終りはじまりの緑の河」があると読んでもよい。ともかくも「はじまり」と「終り」がたった一首の中で押しつぶされているのである。この悲劇的な事態の一方で、一首の響きはあまりにも短歌らしいある種の高揚感、陶酔感を伴っている。別々の時空を押しつぶすことが、韻律の高揚感に対する火打石になっていると考えてもよいのかもしれない。
もういちど「翳り」に注目しよう。まずは印象から展開したが、おのおのの単語や言葉に対して詩的感覚を見出すさいの基準、これも『子午線の繭』を読みながら追いかけたくなるところである。「一本の樹」に関しては、明るい日差しがあるからこそ何か悲しい気持ちを感じる、同じ幹の中でも日向があれば日陰になる場所もあり、これはそういったうらはらの悲しみであるのだ、といった読み方が一般的であるだろう。同様のものさしを「河」の一首にも沿わせてみよう。「河」は「水」によって翳っている。「河」は涸れ川でないかぎりはほんらい「水」によって成る概念であるが、むしろ「水」があるからこそ「河」が翳るのだと読み解いている。翳りという悲しみは、自身を成立させる物質によって内側からあふれだすようなもの、ととらえてもよいだろうか。そう考えるならば、「一本の樹」の翳りもまた、外的な日差しによって生み出されるとともに、樹じしんが本来的に備えている暗部でもあるのかもしれない。その暗部をのぞいたときに、いっそ光の射すような詩のきらめきを見つけてしまうおどろき。掲出歌と同じ連作「水は病みにき」から少し引いておく。
褐色の鉄橋をわたり汽車往けりどの窓も淡く河を感じて
橋上に俯向く人も春の日も死を病めるなり山鳩の歌
弾き手のなき夜のギターよ忘却の生なりしかば砂地をなしき