解剖台にうつさむとして胸のうへの銀の十字架の鎖をはづす

上田三四二『雉』

 

先日の日々のクオリアで山木さんも取り上げていた上田三四二の『雉』から一首。この歌を知ってからどれくらいの年月が経ったのか分からないが、初句字余りの歌を十首あげよと言われたらおそらくこの歌を十首のうちの一つに選ぶと思う。音読した際、字余りの箇所はおおかた早口になって読まれるものだけれど、この歌は何か違う。字余りであってもじっくりと一音一音を発してしまう。「かいぼうだいに」と発するときの口の動きがかなり複雑に形を変えるのでどうしてもじっくりとなるし、じっくりとなったところに「解剖台に」という言葉の意味がのしかかってくる。この歌には解剖台にうつすという未遂の大きな動きと鎖をはずすという既遂の小さな動きがあるが、これから解剖する遺体を前に、一首のフレームは胸から逸れることがなく決して顔を写さない。歌の中盤からは「の」が多用されているにもかかわらず、よく言われる

 

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
佐佐木信綱『新月』

 

に見られるようななだらかなズームアップとしての「の」ではなく、「の」のたびに同じフレームが新しく歌のなかに示されていく、同じ場所にとどまり続ける「の」であるのだと思う。ただ、「胸のうへの」の二回の「の」と「銀の十字架の」の二回の「の」では「の」の圧力に差異があって、「胸のうへの」では「の」の圧力は弱く流れるように歌は進み、一方で「銀の十字架の」の「の」は押し刻むような力が加わっているのではないかと読む。微妙な感触の違いだけれど、次第に溜めこまれていくためらいが「の」の圧力の強まり、またアクセントの重さとなって一首に溶け込んでいる。「鎖をはづす」までの時間、心理の克明な経過が四つの「の」によって表れているのである。

「銀の十字架」は故人の信仰の象徴であり、亡くなるときまで信仰を手放さなかったことの証である。その鎖をはずす行為は言わば他者の信仰に手を入れることとも言える。解剖という行為も人体の内面をさらけ出すものだ。とはいえ職務として故人の信仰に手を入れ、身体に傷を入れながら、それでもこの歌のなかで故人の尊厳に傷は入っていないのだと感じる。そう感じる理由はいくつか出てくるけれど、「の」の動きに見られるような、言葉に沿ったひとりの医師の息のありようをわたしが読者として少し強めに信じているからなのかもしれない。

 

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